前に突き出ていた手を奥の方へと彫り直した。ぱーっと大きく膨らんでいたスカートも、腰に張り付くような薄い布にした。そうやってあちこちいじっていると、だんだんこの彫刻の物語が変化していく。
この女は広い道を歩もうとしているのではなく、後ろを警戒しながら、前を行く人から離れないようにそっと彼の背中に手を当て後ろ向きに歩いている。
二人の目は合わせて四つ、犬の目も入れれば六つになる。道は始まったばかりだ。(K)
前に突き出ていた手を奥の方へと彫り直した。ぱーっと大きく膨らんでいたスカートも、腰に張り付くような薄い布にした。そうやってあちこちいじっていると、だんだんこの彫刻の物語が変化していく。
この女は広い道を歩もうとしているのではなく、後ろを警戒しながら、前を行く人から離れないようにそっと彼の背中に手を当て後ろ向きに歩いている。
二人の目は合わせて四つ、犬の目も入れれば六つになる。道は始まったばかりだ。(K)
これまでガハクは3枚の『赤い街』を描いている。この絵にも、やっぱりスエデンボルグが絵の中にいて、ここでは走っている。宮廷の要職に就いていた頃なんだろう、忙しそうだ。
絵には思想がなけりゃ、そこに物語がなけりゃ、ただの色だ。そんな色遊びは、時空を超えてはとても生き残れないだろう。ポンペイの遺跡が発掘されて、2千年の時を超えて鮮やかに蘇る。火山灰に一瞬にして埋まって消えたかに思えたあの頃の壁画は、人々の日常の生活の無常とは関係なく、命のあるものの姿を美しく伝えている。幻想と実在を取り違えないようにしよう。日々の苦労に潰されてしまうことの無いように、目が曇らされないように心がけている。
画家が善良で無垢ならば、絵の具もテーマも与えられるという。ガハクの様子はそんな風だ。ギターとバイオリンの合奏がやっと一曲できるようになったから、今日から新しい曲に取り掛かった。(K)
30年前の大理石の彫刻『広い道 、狭い道』の続きを彫り始めた。
これは彫り直しではなく、途中で技術的限界とイメージの貧困と迷いが生じたから、そのままに放ってあったのだ。今ならいろんなものをもっと自由に刻めるはずなんだ。
どこから取り掛かろうかとしばらく眺めていたが、まず広い道からいじってみることにした。女の子が道の中央に立っている。周りで飛んだり跳ねたりしているのは、あの頃の夢に出て来た霊たちだ。ピッポパッポ ピッポパッポ と、機械仕掛けの人形のように手足を動かすその様子は、ダンスの練習をしているみたいだった。表現になる以前の退屈で単調で冷たい繰り返し、その名は訓練。広い道を行く人は能力を競わなきゃならないんだ。消耗戦のはじまり。愛とは遠い世界に広い道は続いていく。
月が端に彫ってあった。夜を照らす満月だ。もっとくっきり彫ろう。(K)
『Mの家族』の中でいちばん独立心の強そうな女の人の服が、いつの間にか描き変えられていた。咄嗟に頭に浮かんだのが、『邪馬台国』。あの頃の人だったら、きっとこんな風にキリッとしていたはずだ。今よりずっとチャーミングで、憂いのない意志的な顔をしていただろう。嘘のない顔、外と内が一致した人の立ち姿は美しい。
昨日久しぶりに山の上の小さな神社まで登った。社の中は落ち葉がいっぱい吹き込んでいて、埃もいっぱい溜まっていた。お祓いの榊の小枝でガハクが掃除を始めた。私も裏に回って、柱に絡んだり床を這っている蔦を引っ張った。スルスルと簡単に抜けた。
自然は人間が関わって初めて動き出すというのは本当だ。誰にも見られないで触れる人がいなければ、自然はいつまでも粗野で乱暴なままだ。あっ、人もそうかな?(K)
ガハクが言うには、『Mの家族』の主題はこの大きな白い樹なのだそうだ。
骨のように白く輝く幹。吸い上げられる水の音。うねうねと空に向かって伸びている枝。高いところでゆっくり揺れる梢。緑の葉の広がりが巨大な日陰を作っている。
あゝきっと森の木々たちは、この白い樹から命をもらっているんだ。川の向こうに立っているあの人たちは何を眺めているんだろう?幽霊のように透き通ったこの白い樹に気が付いているかしら?
この絵には見るものがいっぱいあって、森をかき分けながら進んでいるうちに、白い樹のことをすっかり忘れてしまう。それでも、でーんと聳えて森を護っているのが、命の樹だ。(K)
炎だけではこじんまりとまとまってしまうので、炎の周りをぐんぐん抉ってみたら、だいぶ大きくなった。炎の先端から放射する光も彫った。そして熱の広がりの輪もレリーフ状に刻んでみた。彫りながら、樹木のように広がっていく様子が森のようだと思えた。
太陽は熱と光。もし太陽に熱がなければ何も育たない冷たい冬の世界がずっと続く。
ずっと使わないまま放って置いたコンプレッサーとエアービットだが、その先端の部品が手彫りに使えそうだと気が付いた。タンガロイチップが埋め込まれたタガネはよく切れるし、頭の方も焼きがきっちり入っていてハンマーで叩いても簡単にはへこまない。こんなに良い道具を機械にだけしか使わないのは勿体ないことだった。使いこなす腕があれば、機械ができないことを人の手はやり遂げる。求めていたものにだんだん近づいて来たぞ。(K)
今朝『 Mの家族』の絵を眺めていて、これはやっぱり洪水後の世界だなと思った。もし私が舟を作るとしら、木を切り出して来て製材し、組み立てて行くのに都合がいい広くて平坦な場所を選ぶだろうから。あんな高いところでは船大工の足場をつくるのさえ大変だ。だからあの舟は、洪水がすべてを覆い尽くした後、ようやく嵐が止んで、やっと現れた陸地に錨を下ろしたんだよ。今でこそ山のてっぺんだけど、その時は小さな小さな島だったはずなんだ。
みどり生い茂るこの豊かな地上で、人だけが使うことを覚えた火が、森の奥で燃え盛っている。あの家には、とんでもないことが起きたのだ。想像はさらに悪いものを生む。だから昔の人たちは災いが自分らにまで降りかからないように黙っていた。知恵あるものの言葉に耳を傾け、ただ頷くのみ。家の外より、家の内の方が闇が深い。
洪水はまだ治まってはいないのだと、メルヴィルが『白鯨』の中で書いてる。いまだに地球の⅔は水で覆われているじゃないかと。犬が水辺に立っている。凛々しい姿で水を眺めている。
最期の日も散歩に川に出かけたトワン。その視線の先の風景は、きっとこの絵のような場所だろう。ガハクの目の中にトワンが住んでいる。(K)
1770年に起きたらしい巨大な太陽フレアのせいで、この日本でもオーロラが見られたという。夜中に空が赤く染まり、天空に向かってまっすぐ伸びる白い光線は、天の川まで届くほどだったと。壮大な光景に遭遇した人たちのドキドキと鳴る心臓の音まで聞こえるようだ。
眠ってしまっている心を、死んでしまった人たちをも呼び起こすような光景。そういう信じられないものを見た時にどうするか?
絵に描いて残してくれた人がいる。記録として書き残してくれた人がいる。事実をそのままくっきりと刻むことが、最もむずかしい。
余計なものをそぎ落とし、陰影をもっと強くして、地球まで届くまっすぐな光を刻もう。(K)
安逸な生活を拒否して飛び立つふたりに、祝福あれ!無言の応援も沈黙の呪詛も、もうふたりには届かない。
生き生きとしていたのがいつだったかもう思い出そうにもその記憶さえも曖昧になった者たちが吐き出す言葉には、毒がある。真っ赤に燃える世間。赤と黒。火と炭の色だ。尊厳を保つために傾聴している風を装う者らに真実があるはずがない。
メルヴィルが言いたかったこと、書きたかったこと、伝えたかったことを『白鯨』の中の人物たちが生き生きと現している。意識の革命を起こそうと、呼びかけてくる。風下の岸の者たちよ、さらばじゃ!
ガハクの画室の真ん中に立つと、4枚の描きかけの絵に囲まれて、気持ちが昂ってくる。窓の外は紅葉が始まった山の色。空は秋の薄青だ。今日もパンが焼けたら、自転車で山に出かけるのだろう。(K)
石頭(セットウと読む。石を彫る時のハンマーのことだ)の柄に使う木の『ウシコロシ』この庭に植えたのは、たぶん17年前だ。岩手から取り寄せた苗木2本のうち、一本だけ無事に育って、やっと使える太さにまでなった。根元が5センチほどある。2階の屋根に届くほど背が高い。
石を彫る衝撃を和らげるしなやかさと強靭さがある木が、ウシコロシ。怖い名を持つこの木、屠殺に使われたのだろうか?と思っていたら、ガハクが「いや、それは鼻輪のことだよ」と教えてくれた。
木は秋から冬にかけて伐採し乾かしておくと丈夫で長持ちするそうだ。脚立に乗ってちょうど良い太さのところに鋸を当てた。2〜3本取れる長さの1mでカットした。切ってみると、石彫の道具屋に売っているウシコロシとはちょっと違う。店のはもっと赤い木肌と皮をしていたが、うちのこの木は白っぽくて優しい木肌だ。使ってみよう。
ウシコロシ、別名カマツカ。(K)
トワンは、黒いアイラインがくっきり引かれて、魅力的な目をしていた。眉もスーッと目を引き立てていた。そういう美しさは写真には記録されない。心の奥にあたたかい気持ちが湧き上がった時にだけ現れる。それは生きている姿だ。だからトワンが死ななきゃ、こういう風には彫れなかった。
ガハクが死にそうになったことが何度かあった。その時の怯えを思い出す。オロオロとしたし、元気になってもまたこんなことがあったらどうしようと、独りになる不安から抜け出すのは容易じゃなかったが、今回は違っていた。どっちを選ぶのか、その決断が苦しかった。「(たとえ僕が死んでも)余計なことはしなくてもいいからね」と、ずっと言われていたからね。
「あの時、僕の死を受け容れてくれたから、僕は死ななかったんだよ」とガハクが言う。後先が逆のようだけど、そうなんだ。そういうものなのだ。
今夜もトワンとその彼女を彫った。アイラインはヤスリを上手に使えば綺麗な面が削れることが分かった。いつまでも成長し続けている。腕は上がり続けているようだ。(K)
週に一回フォークリフトを動かしてバッテリーも充電しているのだが、今日はその後続けて内部の掃除を始めた。やり始めたら、なかなか終わらない。油汚れや、こびり付いた埃、シャーシに堆積した泥をこそぎ落とし、あちこち拭いて回っていたら、雑巾が真っ黒になった。グレーだと思っていた機械部品が青だったり、黄色のパイプだったり、黒く塗装されていたり、、、。
外側は30年前にレモンイエローのペンキで塗り替えたんだけど、内側は35年間一度も掃除したことはなかったんだ。たまにコンプレッサーのエアでシューッと埃を吹き飛ばしていただけだった。
一つ一つの部品が複雑に組み上がっているのを眺めながら、仕事というものの本来の姿を考えていた。すべてがお金に換算されてしまうけれど、労働の中身をもっと直に体感的に感じとりながら動いて行かなけれぼ大事なものを見失う。
ガハクが車検の終わった車を受け取って帰って来た。整備士のお兄さんが部品交換した所を一々説明してくれたそうだ。うちの車はもうクラシックカーらしい。キャブレーターの付いている車なんてもうみんな乗ってないのね、知らなかった。(K)
3時のおやつにしようと二階に声をかけたが、すぐには降りて来なかった。
家で石を彫るようになって半年経った。なにをするのも一緒だ。学生の時以来で、このペースは本当に楽しい。もっと互いの存在が鬱陶しいものかと思っていたけれど、そうじゃなかった。外に心が向いていないせいだろう。展覧会をしなくちゃとか、売らなくちゃとか、他人と繋がっていなくちゃとか、なくちゃならないものが消えて行くとやっと現れたのが目の前の人、目の前の風景だった。話したいことを思いついたらすぐに口に出すと、聞いてもらえる。
やっと降りて来たガハクの顔に、バーミリオンの絵の具がくっ付いていた。どこを塗っていたのか分からないけど、派手な色の頬紅だ。ティッシュで拭ってあげたけど、油絵具だからなかなか取れない。ほっぺの中に煎餅をくわえたままの舌でぐっと内側から押して協力してくれたので、やっときれいに拭い取れた。
白い花の真ん中にバーミリオンが塗ってあるこの木、命が与えられたようじゃないか!この世に芸術がなくなってしまったら、ただの生殖と生存だけが続く。そんな独裁者のいる家も国も組織も死んだような場所だ。だから遠ざかることこそが本当の闘いなんだ。(K)
5時になると手元が暗くなる。久しぶりに投光器を取り出して来て、高いところから照らしながら彫った。夜の野外でカチンカチンと甲高いノミ音を響かせていると、時を忘れる。若い頃にやれたことが、ずっとやれなかった。なのに、今この庭ではやれている。
アトリエをこの庭に移してから最初に彫るのは、この壊された石の彫刻を作り直すことだと決めていた。これをしっかり彫ることができれば、過去をすっかり捨てて歩み出せる。
石の粉を洗い流すためにジョウロで水をかけたら、石の中に山の模様が浮き上がった。「こんな風に磨けないかなあ」とガハクが言う。彫った形を横切って黒い模様を磨き上げるなんて、ちょっと私には思い浮かばない発想だ。やっぱりガハクは絵描きなんだな。(K)
昼間、ケイトウの花のスケッチを探していたら、トワンがガハクにぴったり張り付いている素描を見つけた。横に犬のセリフも書いてある。
「ボクがパパを好きなのは、パパがボクを好きだからじゃないんだよ。ボクはパパが好きなんだよ」たしかにトワンの言いそうなことだ。
ガハクがやっと腰の痛みが癒えて、ふた月ぶりにお風呂に入って出て来たところを 待ち構えていたトワンが、最大級の敬意と称賛の眼差しで迎えていた場面だ。それからは毎回風呂場の出口で待つようになった。きれいに洗われた体から発散する匂いをくんくん嗅いで喜んでいる。
洗礼とか、禊とか、滝に打たれるとか、身を清める宗教的行為が実体あるもののように見せられた。病気からの回復は身も心もきれいになることだ。
ガハクが9割の致死率から生き延びてこの家に戻って来た時の痩せ細って削ぎ落とされて骨だけのようになった体。そこから出される声の大きかったことを思い出す。ホールに響き渡るようなクリアーな音声。その時天井が高く感じたのは、ふたりとも同じだ。空間は変化する。それは地獄にもなるし、天国にもなる。
山で視線を感じて振り向くと、梢の間に小鳥の目があるそうな。山で鹿に会うと「トワン!」と呼びかけるガハクの最近の絵には実感がある。女が服を脱ぎ始めたのは、春の陽気と集中のせいだろう。(K)
黒御影石の磨きは、大理石の数倍時間と手間がかかる。力も要る。今やっと400番の砥石に入ったところだ。この後、♯600、♯800、♯1000、♯1500、♯2000までかけて、ピカピカにしてみようと思っている。大理石だと艶が出る手前でやめることが多いのだけど、これは太陽だからね、最高に輝いた方がいいだろう。
太陽には裏側がない。でも、彫刻には裏側がある。この裏側の炎はもっと太くて柔らかくて飛び出すような凸面で彫ろう。冬になる前には出来るだろう。
夕暮れが早くなった。足腰が冷えると筋肉が硬くなって突っ張ってくる。手彫り手磨きでやっているから、冬が来る前が勝負だ。(K)
朝の光が「綺麗だ」と言ってガハクが撮ってくれた。
クラビノーバの上に大理石の彫刻を置いているのは、電子楽器特有のビビビッとプラスチックに響く雑音を消すためだ。小さいけれど、持ち上げようとするとけっこうずっしり来る。
光がなければ彫刻は生かされない。実際に手で触ると、石の冷たさに驚く人が多い。
この小さな天使の名は『ねくすとすぷりんぐ』。毎日家にいて、朝も昼も夕方もガハクといっしょにご飯を食べ、いろんな話をする。彫りたいときに彫れるというのは、凄いことだ。秋なのに春のように生きている。(K)
ガハクが不思議な絵を描いている。この絵は7年前に法然院に持って行って並べた中の一枚だ。あの時は蓮の葉の中央に女の人が眠っている顔が描かれていたのだったが、大きく変わった。「ゴッホが見たら笑うよ」と言ったら、「笑ってくれるかなあ。嬉しいなあ。昨日は一日中これ描いてたんだよ」とガハクも笑う。
今朝は自転車で使った筋肉があちこち張っているそうだ。痒い所にムヒを塗っている。筋肉は鍛えられて太くなって来ると、皮膚とズレが生じるらしく、湿疹が出て痒くなる。それもしばらくすると治まって、いよいよ強くなる。落ちるのは三日、付くのにはひと月もかかるのが筋肉だ。
私の足の爪に境界線があるのに気が付いた。くっきりと段差になっている。それがだんだん押し上げられて、あともう少しで、たぶん2回爪切りするとすっかり新しくなる。『新しい人よ目覚めよ』と呼ぶ声が聞こえる。(K)
メルヴィルの『白鯨』を読み始めたガハクを追いかけるように、私も毎晩読んでいる。クジラの肉を子供の頃はよく食べたし、馬の肉もよく食卓に出て来たけれど、どっちの動物も大きく逞しく美しい。 人間よりずっと素直で優れているかもしれないのに、皆で好きなように扱って来た。小さなものが如何に大きなものや優れたものたちを支配するか、その方法を考え出したのが人間だ。
人間の一番悪いところは嫉妬心だ。自分より優れたものを見たら、惚れ惚れと見上げて愛するのが最初の情動だったはずなのに、いつどこで捻じ曲げてしまったのか?闘争となじり合いばかりに明け暮れている間に終わってしまう寂しい人々のなんと多いことか。
ガハクの馬が突然素敵になっていて驚いていると、「もうどうでもよくなったんだよ。勝手に描くことにしたんだ」と言う。詩人は本なんて出さないんだよ、展覧会なんかしないのが絵描きなんだと言うガハクは、世を捨てて海に出た。(K)
早朝に起きて出窓のブラインドを上げたら、金魚が騒ぎ出した。「朝だね!朝ご飯ちょうだい」と言っているのだ。金魚は私たちの動きをよく見ている。テーブルでお煎餅を食べ始めると、「私も食べるっ!」と騒ぎ出す。ガハクが机の陰からちょっとだけ顔を出すと、「あ、パパだ!」と皆で水槽のガラスに顔をくっつけて並ぶ。声も聞いているようだ。コツコツと水槽をノックする必要もない。いつも金魚にもメダカにも話しかけているガハクである。
今朝は久しぶりに太陽が出て来て、昨日刻んだばかりの溝を横から照らして、くっきりと浮き上がらせた。曇っているとぼんやり沈んでしまう黒御影の中の窪みをどうやったら際立たせることができるか、呻吟しながら彫っている。
黒御影石のノミ音は金属を叩いているように甲高くて、頭の中にまで響く。一昨日は軽く頭痛がしたくらいだ。でももう大丈夫。数日すれば適応する。
家の2階で絵を描きながら聞いていたガハクが、「今日は黒御影石を彫っていたでしょう。体に響く音だね。生活の中にああいう音は必要だよ」と言う。体を貫く音で太陽光を刻んでいる。(K)
絵に命を吹き込むのは、画家の(愛しいものを描きたいという)善への意思に流入する者達だ。ガハクの絵が変わった。優しいその一コマは見るものを拒まない。
ここに描かれた物語は、実際にあった出来事に主題を取ったものではあるけれど、もう過去のものではなくなった。今そこで起きていることのように新鮮なのは、彼らが絵の中に住み、そこで動き始めたということなのかな?(K)
大きな石を立てたまま(最終セッティングの状態)で彫っている。横から、斜め下から、ハンマーを振り下ろす(振り上げる)。機械を使わないからゆっくりだ。一皮剥いては、もう一皮、だんだん形が引き締まって行く。どうしてなのか、いつも裏側の方が形が柔らかくて優雅に見える。何にも気にしてないからだな。人に見られることのないところに自由がある。(K)
「いっしょに登ろうか」とガハクに誘われて二人で山散歩に出かけた。雨はずっと同じ調子で降り続いている。ときどき蝉が目の前をぴゅーんと横切る。枝っきれを振り回しながら歩いているのは、蜘蛛の巣を払っているのだ。
ペダルを漕ぐのに比べたら、全然楽だ。ハアハアするくらいに早足にしてみたが、やっぱり自転車の方がキツいな。三日前にガハクは、この山道を林道の入り口からてっぺんまで、一度も足を付かずに登り切ったそうだ。凄い体力だ。
去年の今頃にガハクは病院通いから解放され『終診』となった。今は体重61kg。筋肉に包まれた脚や腕は丸くて逞しい。もう角材のように四角い骨が浮き立っていた形はどこにもない。
山道を降りながら、今日宅配でガハク号のサドルが届くのを思い出した途端、家に向かって駆け出した。還って来た人の足は軽やかだ♪(K)
いつの間にか、この子ずいぶんやんちゃになったなあ。うーうー、きゃんきゃん。この二人の間に、怒り、疑い、試しが入り込む余地はない。
「人間、信頼関係だからさ」とは、私たちが困っていた時に助けてくれた人の言葉だ。その逆は「裏切らないでね」という言葉だろう。割って入って盗んでいく者がよく使うセリフだ。
『告白』(町田康)。昨夜は時間切れになって、今朝、外が熱暑なのを言い訳にして最終章を一気に読み上げた。心の中の心、さらにもっと奥にあるその心の中の心の心というのがある。本当のことを言おうとして探って行くと何度もひっくり返る。
「みんな『純粋』を誤解しているんだよね」と言われたことを思い出した。あなたは純粋過ぎる、使い物にならないということで排除される。それでも壊れなかったものが最後の頼みだ。
「あなたたちには子供はできないと思いますよ」と言われたこともある。そう決まっているんだそうな。善と真理が一つになって初めて生まれるものがある。怯えを知らない怒りを持たない溢れる喜びと楽しさを体現している小さく可愛らしい生き物が絵の中に出て来た。(K)
今日は、左手が気持ちよく動いてくれた。休まずずっと彫り続けられた。この庭に仕事場を移して4ヶ月が経って、やっと解体作業の疲れが取れたようだ。
パワステではない私のフォークリフトのハンドル捌きには力が要る。重い石を持ち上げて、狭い場所でぐりぐりハンドルを切るのは、本当にキツかった。時には、右手も加勢しなきゃタイヤが回らないくらいに重かった。
腕を持ち上げてポパイのようなポーズをしては、腕を下ろす動作を繰り返していたら、関節のハマりがしっかりして来た。だんだん左腕が強くなったように感じる。それでも左右差はずっとあるだろう。左は右に永久に追い付かないけれど、右のやることをずっと支え続ける為には、頭を使わなくちゃ、工夫しなくちゃ。
振り下ろすハンマーがノミの真芯に当たる。いつもそこだけは、ピカピカだ。ハンマーの方も、ピカピカだ。(K)
ガハクに「今日は何を描いたの?」と聞いたら、「自画像の窓のところを描き直していた」と言っていたのはこれか。真っ黒な外の闇。クロームイエローのねじれたカーテン。
この絵を見ていると、30年も前に唐突にガハクが言った言葉を思い出す。「世界と繋がるとはどういうことか、僕は分かったんだ」と、天啓のように降りた認識を話してくれた。
深夜のアトリエでキャンバスを前に描いている時に善い霊たちが窓の外から覗いている。明るい画室の白い壁によりかかって、愉快そうに絵を眺めているゴッホやブレイクやデューラーがいる。右後ろのガハクの肩口から一緒に絵をじっと見つめているのは、ガハクの親友の秀太郎さんだ。
昨夜は、画室の窓から満月が見えたそうだ。雲が切れて現れた満月は、マーエダさんだろう。ガハクが『夜間飛行』(前田ただし作曲)のギターパートを毎日練習している。とても難しい曲なんだけれど、もうすぐふたりで合奏できそうだ。(K)
庭のあちこちに親指の太さくらいの深い穴が空いているのに気が付いた。蝉の子が地上に這い出た跡だ。門を開けようとしたら、ポンと腰に蝉がぶつかって来た。昨日リンゴの木に移動させたあの蝉かもしれない。羽がしゃんと伸びて体に力がみなぎって来たので、朝を待って飛び立ったんだ。ちゃんと門から出て行くところが律儀。
昨日メダカ池に針子(メダカの稚魚)を見つけた!まだほんとに小さくて、大人のメダカに食べられてしまいそうだ。泳ぎ回る大きなメダカの周りの何もいない空間をじっと見つめる日々が始まった。生まれ出たばかりのものたちの可愛らしさは、特別だ。
今朝も朝いちばんに日除けをかけた。日曜日だから彫り始めるのはずっと後になるのだけれど、石が熱くならないようにしておく。黒い球体。太陽から飛び散る火花。きゅっと括れた腰がぱっと解放される辺りを今日は彫る。(K)
またS氏の顔が変わった。人間を知れば知るほどその目は涼しく澄んでくる。その目とは誰の目のことか?鑑賞者の目でも画家の目でもない。目が描ける人はほんとに少ない。じっと見つめ続けても飽きない目。長い年月に耐えられる視線は、一言で言えば愛ある人が愛する人を描く時にしか現れないんじゃないかな。
ガハクは人を描く時に、男とか女とか、あまり考えないで描いているそうだ。経済も政治も家族でさえ、性愛が深く絡み合っていると言われるけれど、そんなものに惑わされることもなく誠実に仕事をやり遂げることができればなあと思う。人がそのままでいて、そのままの姿で美しく見える領域に達するには、なんと遠い道のりだろう。
『告白』(町田康)を読み終わったガハクが、続けて本棚にあった『冷血』(トルーマン・カポーティ)を手に取って、何度も読み直している。そしてカポーティの他の著作まで取り寄せた。感情の剥奪を受けてしまった人たちの犯す罪、その過酷な状況を映し取る筆力に感動したからだ。
この絵に描かれているS氏は、48年前に私たちの前からいなくなった。先を行くパーティーが落とした岩が当たって滑落して亡くなってしまったのだ。現場のすぐ近くを登っていたガハクも、テントプラッツにいた私も、そのことがショックで、事故の後もずっと彼のことを語り合って来た。岩を落とした人、死んだ人(殺された人)、生き残った人たちのことをああでもない、こうでもないと、考え続けて来た。
S氏の命日が三日後に迫った。あの年のように今年の日差しは強烈だ。カドミウムイエローが燃えている。青い影に吸い込まれそうだ。(K)
横から見ると、ずいぶん薄くなった。すらりと立つ姿が貴婦人のようだ。こういう大きなものを彫っていて人の姿を想うなんてことは、今まではなかった。そうしようとしてそうなるのではなく、そうなって行くのなら、きっとそれは良いことじゃないかな。無理矢理に作ろうとしても出来ないことは、似合わない服を着たがっていることに等しい。
綺麗なものは相応しい状況の中で自然と現出する。しかもじっくり時間をかけて誰にも知られず成就される。そういうものが『美』らしい。(K)
今朝から梅を干し始めた。三日三晩、外に出しっぱなしで 夜露にも当てる。1.5kgしか漬けなかったので、笊一つで足りた。
製材所のアルバイトの時に、大小二つあるアルミの弁当箱にご飯を詰めて、真ん中に梅干しを置く。一個の梅干しを半分こでちょうど良い。これだけあれば、一年分は十分だろう。
ゆうべは涼しい夜だったが、二人とも夢を見た。私のは、街に出た夢。ガハクのは、阿蘇のような清々しい高原の家が舞台。
(夢には霊がその人の記憶の中から素材を探して演出する夢と、天使が見せる夢があるそうだ。遠ざかれば遠ざかるほど、いい夢にに近づくか、怖いものに包まれるかは、遠ざかる対象に依る)
ガハクの夢に出て来た高原の我が家を訪れた人々は、皆それぞれ個性的で美しい身なりをした人たちで、中には裸ん坊の人もいたそうだ。「理想的な生活をしていたよ」とのこと。ビルの屋上に点在する出来の悪い巨大な造作物に嫌悪感を覚えるのを、じっと堪えている私の夢よりずっと素敵だ。ガハクと途中ではぐれたけれど、無事に合流できてよかった。
梅雨明けの空は明るく、清々しい。(K)
キッチンの窓の向こうに白槿の花が咲いている。雨の朝も、曇っている時も、今朝のように日差しがあっても、いつも爽やかな空気を纏って揺れている。風にも光にも雨にも敏感に反応する花だ。
製材所のバイト代で、ガハクは久しぶりに絵筆を16本も買った。お気に入りのメーカーのものだそうで、サイズと形がいろいろある。軸が深緑、銅で束ねてあって、毛先が白。絵筆までもが美しい。
死んだ人と残された人が一緒に生きる為には、この世にいる方がステージを上げなければならない。そうでなければ、到達できずに迷っている悪霊か、死に損ないの中途半端な意識にまとわりつかれてぼんやりと過ごして、その瞬間が訪れても知らずに終わってしまうだろう。
ガハクの夏の絵に白い花が現れた。夏に咲く白い花は永遠を表象している。(K)
今朝、ガハクはギターの弦を注文した。ソフトテンションで押さえやすいのを選んだそうだ。私は楽譜をプリントするために6km下流のコンビニまでドライブ。
次に弾こうと思っているのは『夜間飛行』で、前田ただし氏作。レーシングカーが大好きな息子さんのために作られたという曲は、流れるような華麗さとスピード感がある。
マーエダ六重奏団のスコアは9ページもある。以前はそれをそのまま糊で繋ぎ合わせて、長くて広い台に置き、歩きながら楽譜を眺めて弾いていたのだけれど、今はそんないい加減なやり方はしない。バイオリンとギターのパートだけを鋏で切り取って台紙に貼り付けた。
『月が踊る』だって、弾けるようになって初めて「あゝいいなあ、この曲素敵だなあ」と思ったのだから、これからも新しい発見があるに違いない。
「弾けないのは、弾けるまで弾かないからだ」とガハクが言っているし、前田さんだって私たちが弾けない曲を送って来るはずはない。楽しさと喜びがある限り愉快に弾いていけるだろう。
今夜は七夕だ。雲の上を滑空し行き交う星々を想いながら弾いてみよう。(K)
雨の日もテントの下で石を彫る。すっかり新しく生まれ変わった形に、以前の首の長いネッシーの面影はどこにもない。
久しぶりに天使の製材所のアルバイトが入って、二人で朝早く起きて弁当を作って夕方まで働いて来た。しかも三日連続!トワンがいたら気になって仕方がなかっただろうに、金魚だと留守番させても平気だ。悠々と泳ぎながら帰りを待っていてくれる。
バイト代が入った夜にガハクが、「バイオリンの弦を買ったらいいよ」と言ってくれたので、即注文。久しぶりに新しい弦に張り替え4本ともピンク色のシノクサに統一したら、あまりにもそれまでの音と違っていて驚いた。
すぐに思い出したのは、前田整氏が一年半前に私のバイオリンを眺めながら仰った言葉だった。「いろんな弦がありますね」と言った後に弾き始めた曲は『アルフォンシーナと海』で、小さく弱く静かに、でも掠れるような奇妙な音だった。そして、弾き終わって楽器を手渡しながら、「いい楽器ですね。大事にしてください」と仰った。その言葉の意味が、今やっと理解できた。
明るく柔らかく透明な音は、雨に染み込む。(K)
ガハクが絵の具を練っている。鮮やかな黄色だ。ヒンヤリとした光にもなるし、熱い光線も描ける強い色だ。このメーカーのカドミウムは、ねっとりして重くて練りにくいのだそうだ。顔料を詰めてある瓶を指差しながら、「ほら、毒のマーク」蓋に髑髏が黒のマジックで描いてあった。
画家にとって色は命だ。どんな欲望よりも勝るのがカドミウムレッドと言った画家がいる。でも反対に、カドミウムは毒だから決して使わないという人も実際に知っている。でも、ほんとはどうだろう?カドミウムの顔料は値段がすごく高いから、自分の絵にそこまで投資しようとは思わないだけかもしれない。人の本心というのは本人が誤魔化しているうちに、自分でも分からなくなっていることが多いのだ。
まっすぐに進めなくても、何度も打ちのめされても、その度に立ち上がった人は、そこに天使がいたことを知っている。自分の力だけじゃ生き残れなかった。
絵の具を練り終えた頃に、路地奥から救急車が出ていった。近所の爺さんまたすぐに戻って来るだろう。自分でマスクの紐を掛け直している姿を窓から眺めて、安心した。(K)
ガハクの『夏』の絵を見つめていると、緑の光線が、梢を透過し、枝の間をすり抜けて私の方へやって来る。キャンバスの前に立つ少年の目が朱文金のようだ。真っ黒でくりくりした目、まばたきもせず対象をじっと見つめている。パレットが緑の光線に照らされている。一色だけで描こうとしている。一色あれば十分か。
水槽を買って水温を一定に保つためのヒーターも取り付け、室内で飼うようにしてからは、金魚たちはみるみる元気になった。輝く水とは、グリーンウォーターのことだったのか。魚が生きて行くのに必要な微生物たちが活動している水の色は、淡く輝く緑色をしている。
グリーンエアに満たされて、S氏は今日も天界で絵を描いている。ガハクとぴったり視線を重ねて、真っ直ぐと、彼らは決して標的を外さない。(K)
夏至の朝、5時に起きた。血圧がいい数値だったので、すぐに動き始めた。ガハクも起きて来て、それから二人とも早起きになった。スフィアが変わったようだ。
病院にいる6週間ほとんど眠れなかったというガハクは、最後の数日だけよく眠れたのだそうだ。そんな朝に11階の病室の窓辺のベッドから眺めた赤城山から昇る太陽や、窓の横を飛び交う小鳥たちの様子を、決して忘れることのないその時の感慨と共に話してくれる。
『昇る太陽』の裏に回って彫り始めた。なんとなくそうなってしまっている形を 目指す方向にじわじわ動かして行く作業は、なかなかしんどい。根気が要る。ぐずぐずの石がパカッと割れて抵抗するのを宥めながら、細かな打撃で刻んで行く。立った姿が美しいのは、光が綺麗に回っているからだ。影がしっかり支えてくれるからだ。(K)
「 女の人のような柔らかな線が出て来たね」とガハクが言う。手彫りでゆっくり詰めて行くと、無意識なものが形になって刻まれる。そういうのが芸術じゃなかったか。機械を使ってでも急いで彫らなくちゃ期日に間に合わないとか、ちょっと気に入らないところがあってもこのまま仕上げちゃえとか、他人の意見には耳を貸さないとか、石の脆さや節理を生かすも殺すも作り手の意のままという傲慢とか、思えばいろんな理屈を付けて回避して来た。
新しい仕事場を得たら、今まであったこと、やって来たことの中身やその詳細、そしてそこにあった落とし穴や迷路が見えて来た。やっと抜け出した。
彫刻に可愛らしさが出て来たのは、金魚のせいだ。あの子たちは水質を良くして水温を上げたら、まず眠り出した。今までの疲れを取ろうとしているのかと思ったけれど、きっと体の中に巣食っていた白点虫がだんだん消滅して来たので休めるようになったのだろう。よく食べる金魚は元気だ。まだ眠ってばかりいる金魚はゆっくり回復していくのだろう。
霊的な事柄はゆっくりと成就する。この世のことは性急だ。ごちゃ混ぜにしないこと。
シモーヌ・ヴェイユが聖書を引用して考察していた。パンを求めている者に石を与える人がいるだろうか、良いものを求め続けていれば決して悪いものが与えられるはずはないだろうと。だから自分も良いものに向かおうと。マタイ伝7章9を開いたら、確かにそのように書いてあった。「求めよ。さらば与えられん」というのは、ここのことか。
ずっとコーヒーは飲んでいないのを知ってか、昨日天使がスタバのコーヒーを降らせてくれた。今朝は久しぶりにパンとコーヒーで朝食をとった。喫茶店で一緒に飲もうよというのではなく、別々の場所で同じものを共に味わおうよという天使の気持ちが、今朝分かった。(K)
夏至前にして、もう夏野菜が採れ始めた。古バケツに植えているナスがずいぶん大きくなった。大収穫が予想されるので、嬉しくなって牛乳パックで嵩上げをして肥料と堆肥を足しておいた。このやり方でならどんどん成長しても大丈夫、対応できる。
ずっと懸案だったスモモの横枝も切った。隣の塀ぎわに影を落としていたからだ。手鋸でゆっくり切った。切断面にボンドを塗り、和紙を貼っておいた。こうしておくと切り口が腐らずにすぐに再生する。
今年はリンゴの木にネットは被せないことにした。相変わらず黄色い葉っぱが出るけれど、今年も実が付いている。猿もよく知っているんだなあ、この辺りの様子がだんだん変わって行くのを。栗の木は切り倒され、斜面の整備が進んでいる。(K)
「いつまでもあると思っていちゃいけないの。すぐに無くなるものなの」と言ったのはシャーロットだ。『野生の棕櫚』(フォークナー)に出てくるヒロイン。彼女は晩秋の湖で素っ裸になって泳ぐ。ブルブル震えながらストーブで暖をとる姿が傷ましくも美しい。
出会った人は知っている。”存在”にもし出会えたら、それはもう奇跡だと。
画室のドアが開いていたので声をかけずに覗いたら、「わっ、ビックリしたあ」と、ガハクにすごく驚かれた。集中していたんだな。泳ぐ人が強くなっていた。世界にひとつしかない真珠を探しにぐんぐん潜って行く。(K)
今までで一番良い姿勢だ。毎日やっている腹筋と背筋の筋トレが効いて来た。腰を痛めなくなった。これなら今年の夏は元気に乗り切れるだろう。日焼けし始めたので、風呂敷やらシーツ、アルミブランケット総動員♪
若い頃は御影石を彫る時には、1.2kgの石頭(せっとう)を振っていたのだが、今回は大理石用の 800g のを使っている。軽過ぎて跳ね返されるかと思いきや、真芯に当たれば着実に剥がれていく。それにこの白御影石はグズグズで脆いから、小さな衝撃で着実に削って行くのが良いと分かった。軽いハンマーだからこそ、横打ちの連続が出来る。
大理石は石のうちに入らないなんて生意気なことを言う先輩がいたっけ。柔らかな石より、硬くて力持ちでなけりゃ彫れないような石を彫るのが偉いと思っている単細胞がけっこう多いw。
でも今、40年ぶりに彫り直していて分かったことは、大理石で鍛えた彫り方や見え方、考え方、陰影の使い方が如何に豊かで彫刻の領域を広げてくれたかということだ。立っている姿を見つめながら美しい形を探して彫り続けている。(K)
ここはエデンの真ん中辺り。柔らかな草が繁茂している。よく見ると丸く押し潰された場所があちこちにある。鹿が寝た跡だ。夜になると平らな草原に丸くなって、ときどき寝返りなんか打つんだ。小枝が近くに転がっているから、むしゃむしゃ枝を齧りながら眠りについたりしたのかな。やさしい風に包まれて、安らかな一夜を過ごすのだ。(K)
苦しかった頃にガハクが、「大丈夫だよゴッホがいるから。彼以上の苦しみはもうないよ」と励ましてくれた。その時、「僕がゴッホの奥さんだったら、決して死なせなかったのになあ」とも言った。彼は自分の絵の価値を知っていたのに、惑わされ苦しみ悩んで自ら命を絶った。理解者もいたのに。支援してくれる弟に申し訳ないとずっと負い目を持ち続けていたんだ。そういう純粋な人の苦しみにすーっと潜り込んでくる卑しい意識、くすんだ想い、自己否定の葛藤から守ってあげることは、同じように絵を描くことに喜びを持っている人にしか出来ないだろう。
ガハクが山を描いている。自転車が出て来たぞ。トワンがガハクの後を追いかけている。「今年はトワンが来るよ」という予言はどういう形を遂げるのだろう。未だに謎だけど、ガハクの言葉を信じよう。(K)
午前9時。朝から日差しが強いので、金魚に日除けをしてやったら、水の底でいつまでも眠っている。水温というのは、そんなに急には上昇しないんだな。それにしても今朝の金魚たち、全員寝坊なのはおかしい。
午前10時。彫っている石が太陽に照らされているのが見えた。だんだん蓄熱されるのは彫っている方も辛いので、急いで外に出て、アルミブランケットを東側にぶら下げた。
11時から5時半まで石を彫った。午後遅くなっても山に隠れない太陽。いよいよ夏至が近づいて来て、ついに裏庭まで照らされた。
午後6時。いつまでも明るいから急ぐこともないかと、自転車を押してゆっくり歩きながら景色を眺めた。鹿が齧った痕がある。何という木だろう?よく観察して、鹿の好物の木を特定しよう。(K)
石の摂理が厳しくて突然ガバッと剥がれたりするので、石と相談しながら彫っている。ボソボソの脆い石もゴツゴツの硬い石も、弱点を持っている。それが分かっていれば何とでもなる。柔らかな太陽の花を彫ろうとしている。(K)
町田康の 『告白』、わたしが先に読み始めたのに、とうとうガハクに追い越され、今夜は最終章を静かに笑いもせずに読んでいる。あんなに途中でしばしばクククッと含み笑いや苦笑いをしていたのにだ。熊太郎が可哀想の一心だろう。あ、今鼻をすすった。
途中でやっぱり私は読めなくなった。ガハクの解説を聞いているくらいの距離がちょうどいい。
「読んでいると頭が澄んでくるね。鋭くなる」と言う。正義があると思っていたのに、ちっとも世界はそんな風には動いていなかったことを知る熊太郎。今日は彼と同じ目に合わされた。家庭内のDVや利害や狡猾が他人に向けられる。忌まわしく汚らしい言葉を当然のように語る人たちにうんざりしながら、憐憫を感じつつ労働に勤しんだ。黙って即座に動ける体力と気力は普段から鍛えてある。
ガハクは、敵に対して仁王立ちして正面から見据える。熊太郎のことを解る人は少ない。事件が明るみに出てニュースペーパーを騒がせるようになると乗っかってくる連中はとても多い。それが世間。うんざりだ。やめたくなる。(K)
昨日転んだ山道に、最後までしがみついていた悪霊を落っことして来たらしい。今朝は気持ちが軽かった。その証拠に、起き抜けに測った血圧が素晴らしかった。何回計っても上が130台、下が70台。こんなことは初めてだ。血圧計を買って以来だから、20年かかって遂に達成!
何が効いているのか考えてみると、魚、豆、睡眠、自転車、筋トレ、、、、いろいろあるけれど、アトリエを引っ越したことが大きいかな。もう憎悪を投げてくる奴はいなくなって、ここではガハクがノミ音を聞いてくれるし、小鳥たちは石彫る音に重ねて歌ってくれる。なんてたってガハクの生還以来、食事と睡眠には気をつけているからね。
今朝ガハクは山散歩に出かけて、私が転んだ場所を特定し、「石を片付けておいたよ」とのこと。今週は梅雨の中休みでいいお天気が続くそうだから、ペダルを漕ぐぞ!(K)
ガハクが生還して75日ぶりにキャンバスの前に立って絵筆を動かしたのが、ちょうど一年前。その時に最初に取り掛かったのは、後ろにある150号のキャンバスだ。
よくもまあ病後のひ弱な体で、踏み台に乗るのもやっとの体力で(実際に一度は段を踏み外して転んでもいる)大きな絵から始めたねえと言うと、
「大きな絵に頼ったんだね」と、意外な言葉が返って来た。
大きな絵だと、思いつくままどこか一部分を描いていても、やがてそれが繋がってだんだん出来上がって行く。それが小さな絵になると、集中力が要るという。意識を研ぎ澄ますには、あの時はまだエネルギーが足りなかったんだそうだ。コツコツ、とぼとぼ、ジリジリと進む時もあれば、カーッと燃えるように駆け抜ける時もある。
今夜は小さな絵を描いていた。この赤い木は何を表象しているのだろう?(K)