2020年1月18日土曜日

マダラの馬

近所の婆さんが死んだ。この土地にすっかり馴染んだ田舎の婆さんに見えたが、若い頃本郷からアガノ村に嫁に来た人だったそうだ。江戸っ子らしい切れ味のある話し方に感心したことがある。今夜大きな白木の箱に入っている顔をガラス越しに見て来た。ふっくらと綺麗な顔だったが生前を思い出させるものはなかった。綺麗に作ってあるだけに見えた。
馬が出て来た。やや困っていたところだった。これは救い主だ。前が見えなくてもやり続けるものである。トンネルを掘り続けるのに必要なものは光の方向ではなく案内人が来るのを待てばいい。それまでは愚を承知でやり続ける。(画)


2020年1月17日金曜日

ポスト真実が真実であれば

何故か知らないが急に両親の不和をめぐる人間関係の真実が浮かび上がって来てやっと謎が解けた。これが真実だろうというところまで辿り着いた。周りの人たちの言動と行動、最期に遺された言葉が像を結んだのだ。なんと惨たらしいことかと、解った後でも母親にただ同情するばかりだ。ガハクに話してみたら、「僕がもっとしっかりしていたらあんな所に行かせなかったのに」と言ってくれる。まあ狂いそうなくらい辛い場面を通過した。みんな自分の立場を守るために一生懸命で、小さなものや弱いものや隠れている者への配慮や同情、ましてや庇護にまで思い至らないのが人の死のシーンだ。あれからは、混乱に乗じて暗躍する悪い意図には乗らないように気を付けている。愛する人を見失わないように。大事な人の手をぜったいに離してはいけない。

足の間を彫り抜いている。なかなか辛い仕事だけれど、向こうに抜けた時はすーっとする。風が通るからだ。(K)


2020年1月16日木曜日

音楽

アトリエで音楽を聴きながら絵を描くのが習慣になっていた頃がある。ベートーベンとかマーラーの交響曲なんかを大きな音で流すと文字通り壮大な気分の中で仕事ができる。ビバルディとかバッハのチェンバロ曲だとアトリエをバロックの空気感で包むからおかしなものだ。グレゴリウス聖歌にハマった時期もある。
それらの音楽が制作物にどんな影響を与えていたか考えたことはないが、クラシックからロックやジャズに移ったのを見ると現代美術には合ってるような気持ちになる。表現する時の気分が音楽の種類を選ばせるのかもしれない。
その音楽趣味もカセットオーディオから携帯ラジオに変わりFMなどを聴き始めると徐々にどうでも良くなったみたいだ。最後はレコードプレーヤーの針が摩滅して聴けなくなり、新しい針を買うのが面倒でそのまま、プレーヤーの蓋には埃がたっぷり積もっている。
今は制作中音楽を聴くことはない。(画)




2020年1月15日水曜日

体が軽く動く日

コンビニでお金の振り込みをして、コンビニのコピー機にSDカードを差し込み楽譜をプリントした。もう銀行もプリンターも近くになくても大丈夫。そんな時代だ。

今世紀最大の流星群が降った翌日、昨夜の流星ご覧になりましたか?と園長に語りかけたら、
「はい、見ました。ハイビジョンで」と穏やかな笑みと共に返事が帰って来た。そんな時代だ。

実感を大切に、経験をしたものが色になり形になるのだからと言うと、
「 まだ私は若いですから」とささっと軽く筆が当たるだけの小器用さで満足している様子に言葉を失う。そんな時代だ。

それでも大好きだった生き物が死んだら、その時、まざまざと自分と彼との間にあったものが何だったかを思い知る。美しいものであったなら、彼の姿はもっと美しくなる。醜いものがあれば、憎しみは増幅する。忘れようとしても湧き上がる感情が熱く優しく高らかに響き渡るように、足先から彫り始めた。(K)


2020年1月14日火曜日

絵のような風景

「絵のような風景」という言葉がある。それは絵は自然そのままより美しいものという前提を意味している。一方美しい風景を撮った写真を見た人が「この写真美しい」というのをあまり聞かない。たぶん写真が表現されたものという認識に乏しいからだ。
描いた絵を「写真みたい」と言われることがある。僕のような絵でもそう言われる。特に鉛筆デッサンのようなモノクロ表現では特に。相手は褒めているらしいがちっとも嬉しくない。写真が絵より劣った表現形式などとはちっとも思っていないが両者は全く違うものでしょう。網膜感覚を再現したものだから似て来るのは分かる。特に写実的なものになるとそれが顕著だ。抽象画のように見える写真だってある。でもそれだけでしかない。
僕らが見ているもの(風景や事物)と絵や写真(表現形式』とは本来何の関わりもないということが中々理解されないのだ。(画)


2020年1月13日月曜日

生きているか死んでいるか

トワンがいなくなってから形の嘘が見えるようになった。絵だってそうだ。命が吹き込まれているものは向こうの方から目に飛び込んでくる。これはもう記憶を超えている。記憶に頼らず、力に依存せず、そこにあったものが今は情愛そのものになって現れる。浮かび上がる形に従ってただ彫り続けるだけだ。

今夜、やっと前右足が生まれ変わった。さあ、これからだ。(K)


2020年1月12日日曜日

才智と美

人が才能や知識を欲しがる理由はそれがお金や地位に結びつく。要するに権力が欲しいのだ。利口かもしれないが美しくない。
一方、始めからお金や地位がある人には才能も知識も必要ない。だからそういう人はバカだったりする。これもちっとも美しくない。
才色兼備とは能力と美が一致するのは稀だということ。「才あるものその姿醜し、いやあっぱれあっぱれ」(変なサムライ←宮沢賢治)
「色男金と力はなかりけり」美と権力は一致しないという一般常識。
思い通りに描ける為になら能力は役に立たないし、生きる意味と理由が分かるなら知識は無用の長物に過ぎない。「カエサルのものはカエサルに」。(画)


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