2019年3月9日土曜日

無理解

ずっと以前に読んだ時間表現についての記述をこの絵を描きながら思い出した。
ジェリコーが描いた走る馬の脚の形への批判、馬を撮った当時発明されたばかりの分解写真とジェリコーの馬が違っているという理由だった。それへの反論として写真の瞬間的な映像に対しての絵画独特の動的表現の優位性を主張していた。
議論自体が美学の本質を外れているとしか今では思えないが、現在でもそれほど違わない次元に人々の美学的意識はあるのではないか。
という危惧と絶望に耐えながら俺は今日も絵を描くのだ。o(^o^)o (画)

2019年3月8日金曜日

生まれ変わる形

チューリップの中にある抽象は、人の体のようだ。キュッと締まった花びらには冷たさは無く、ただ高貴さが漂う。茎をもっと細くしたくなって鑿の角度を工夫しながら、じりじり少しずつ彫り続けていた。チューリップは葉っぱも美しいのだ。一枚の花びらでさえ絵になる。彫刻にもなる。美は小さな部分にも、全体にも遍在する。(K)


2019年3月7日木曜日

風景画

風景画を描かねばならぬ描きたいと思ってきた。どんな絵を風景画というのか厳密には言えないくせに、その思いだけが執拗に張り付いていた。
家の庭で眠っているトワンの事を思いながら毎日のように山を歩き回るようになって数ヶ月が経った今、山のあちこちでモチーフに出会う。油絵の前に銅版画にしてみようとか、こんな風景が絵になるだろうかとか考えながら歩いているが今はスケッチはしない。
描こうとして見れば、描かないからこそ見えるものを見れなくなるからだ。意識の集中だけが絵に必要なのではない。無意識に入って来るものを受け容れる時間こそが必要だ。死んだSがこれから行く剱岳登山を心配する父親に言ったそうだ「体験しなければ本当の色は出せない」と。(画)


2019年3月6日水曜日

足元と先端

これを彫り始めた頃、出かける度に池袋駅の地下コンコースの花屋に寄っては、チューリップを一輪買って帰った。花屋のチューリップはどれもきっちり閉じていて、これから開く準備をしていた。スーッとしていてフォルムの綺麗なのを選んだ。だいたいいつも赤紫。家に帰ってすぐに水切りして銀色の花瓶に生け、花が開かないうちにデッサンをしていた。

どうしてここまでしか彫らなかったのだろう、もっとここは思い切って抉ってもいいのにと思いながら彫っている。見ているから気が付かなかったのだな。「見ないで描けないものがどうして見て描ける?」という言葉が思い出された。

あれから随分時間が経った。情報として得たものは花の構造だけじゃない。包むものの柔らかさと内部に秘められた空間や匂いを感じながらくっきりとはっきりと彫ろうとしている。躊躇なく。(K)


2019年3月5日火曜日

絵を見る正しい距離

まず少し離れた位置から全体を眺め、次におもむろに歩み寄り、近距離からあちらこちらを仔細に見て、又離れ全体を眺める、そして次の作品に向かう。これが展覧会などで絵を見る基本的な態度だと言われた。(クスクス…ギャハハ)
ところで絵を見る正しい距離ってあるのだろうか?
あるマニュアル本に画布の対角線の4倍(?)が最適な距離だと書いてあった。(??クスクス…)
絵のそばにいなければ描けないが、仕上がり具合を見るのに少し離れて全体を眺める、ということはよくする。時に一筆入れる度に離れて見るということもある。その繰り返しで描いている。画家が広いアトリエを欲しがるのは自分の制作途中の大作を少しでも遠くから見たいからだ。
遠くから見たスーチンの絵の感動が、近づいたらどこかへ消えたという経験をした。あの場合は離れた位置が最適だったということか。
ある人に聞いたら絵によって違いませんかと言われた。うん、それがたぶんそれが正解だろう。(画)

2019年3月4日月曜日

寂しさの波紋

「寂しいね」の一言で一気に気持ちが沈んでしまった。ずっと我慢して頑張って抑えていた言葉がガハクの口から出たからだ。でも寂しいことは事実なわけで、それをどうしろこうしろ覚悟しろと人に言えるはずもない。こうやって人は互いに苛み始める。

でも、昨夜は違った。もう今までの私とは違う。トワンが死んでからは『寂しさ』は前に進むキッカケ、兆しになった。落ち込んだ気分のまま、深夜にモチーフのセッティングを始めた。すると、何かツーンと張り詰めた気体がやって来て、真剣さが増した。寂しさは皆いっしょなんだ。

日曜日は朝から静かな雨。玄関に生けた乙女椿の一輪がぽろっと落ちたので、それをトワンの石の上に載せておいたら、雨に濡れたピンクの花とトワンの石を眺めている人あり。木を見上げてその元の木を探す人あり。

トワンの石の前で泣いた人は犬を飼うことにしたそうだ。そのうちライオンのようなフサフサの毛に覆われた子犬がこの庭に遊びに来るだろう。(K)


2019年3月3日日曜日

色の約束

青い色で上の方を塗れば「空」だと思い、下の方を塗れば「海」だと思い、緑色で塗れば「森」黄色で塗れば「太陽」赤い丸なら「夕陽」と思っちゃう、というような色の約束事が絵にはある。
画家は時にその約束事を逆手にとったりもするが、多くの場合、無意識に画家はそれを利用している。
絵の色は画家の習慣で決まるのではなく、モチーフの持つ固有色でもなく、全て画家の感覚の表現だとすると、、そこにある色は全て画家の自意識の産物ということになる。
そんな世界は窮屈極まりないから御免こうむりたいものだが。(画)

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