クサギの枝のトンネルをくぐると、急に辺りがパーッと明るくなる。谷から尾根に出たからだ。その明暗を分ける境目のところに、山のてっぺんから転がり落ちた岩が、デンと座っている。
そこからは、どんどん高度が上がって、3回曲がると頂上だ。下を見ると黄色の大きな家が見える。あれは銀行家の家だ。我が家は山が近過ぎて見えない。小さな家々が川沿いにへばりついて並んでいる。可愛い小さな集落だ。
息を整え、気合を入れて、一気に下る。頂上から麓まで、10分もかからない。(K)
クサギの枝のトンネルをくぐると、急に辺りがパーッと明るくなる。谷から尾根に出たからだ。その明暗を分ける境目のところに、山のてっぺんから転がり落ちた岩が、デンと座っている。
そこからは、どんどん高度が上がって、3回曲がると頂上だ。下を見ると黄色の大きな家が見える。あれは銀行家の家だ。我が家は山が近過ぎて見えない。小さな家々が川沿いにへばりついて並んでいる。可愛い小さな集落だ。
息を整え、気合を入れて、一気に下る。頂上から麓まで、10分もかからない。(K)
金魚を飼うようになってから、ガハクの描く水の色が変わった。
魚にとっては空気のような水。人にとっては水のような空気。息が詰まるのは、苦しいことがあるからだ。息をしているのを忘れるくらいに自由に泳げたら、こんなに楽しいことはない。
重苦しい空気、爽やかな風、水の中にもあるんだろうな。
この人の目は魚のようだ。裸眼で水の底を見つめている。海底から光が射している。光に向かってずんずん降っていく。魚の天国は海の底にあるのだろう。(K)
昨夜 "Baila la Luna" を合奏をした後、寂しい気持ちに浸っていると、突然ガハクが「供養だね」と言ったので驚いた。ガハクはいつからそう思っていたのだろう?
「自分が死ぬと分かっている時に、僕のことを忘れないで欲しいなんて思うだろうか?」という疑義まで出して来た。
「無意識の領域というのは広大なんだ。もしそれをとらえられたら、これが自分だと思っていた意識は今よりも倍以上に広がって豊穣になるだろう。そしてもっとその先の知らなかった意識まで見えて来る可能性がある」と言うのだ。
だからそういう重大な地点、あるいは時点に立った時に人は、振り返るだろうか?そんな余裕あるだろうか?というのがガハクの疑問らしい。怪しんでいるのだ。「人それぞれ違うとは思うけれど」と、付け加えた。
ダンテが『神曲』の中の煉獄の章で、死んだ人のことを想い続け、祈り続けることが、魂の救済になると書いていたのを思い出している。(K)
今夜の満月に間に合うようにと、毎日この曲を練習して来た。「こんなに聴いたのは初めてだなあ」とガハクが言うくらいに、前田さんとその楽団の演奏を繰り返し聴いて研究して来た。
そして初めて録音もした。再生してみたら、ガハクも私も今までで一番よく弾けていた。
空は曇っていてスーパームーンも皆既月蝕も見えなかったけれど、月の光は届いていた。やっと弾けるようになった"Baila la Luna"を これからも弾いていこう。(K)
直に触れることができれば、同時に見ることができれば、いっしょに聞くことができれば、誤解も生まれないだろうに。間に立つ者が訳のわからぬことを言い立て解説など始めてからは、人々は真理の光を直接浴びることが無くなってしまった。 権威の冠をかぶった者たちと金持ちたちが、高いビルの屋上に作ったプールで月の光と太陽の熱を浴びて泳いでいる。
今夜は夕飯が終わってすぐに楽器を弾いた。ガハクと練習している『月は踊る』は、とても不思議な曲なんだ。聴いていると何でもなく簡単そうに思うのだけど、自分で弾くとなると難解で速過ぎてどこでメリハリを付ければいいのか分からない。リズムとメロディーが出会うポイントが掴めないのだ。それでも毎晩二人で弾いていたら、遂に今夜ノリが出た。月の光がさして来た。音楽は誰のためにあるか、今夜分かった。月に対峙した孤独で寂しい個人のためにある。(K)