2020年3月7日土曜日

寒椿

やっと玄関の花を生け替えた。冬にこの庭に咲く花は椿しかないのだけど、椿は咲き切ったら突然ぽろっと落ちるから怖くて生けられなかったんだ。ガハクが本当に大丈夫と分かったので、裏庭から蕾がいっぱい付いている枝を2本折って来て花瓶に刺した。何も気にせずやって来たことも、今回だけは慎重に少しの隙も見せないように辺りを見張って過ごして来たんだ。明るさに怯えは禁物。ゆるみには魔がつけ込む。そんな気合いでここまで来た。

母の美しい一言をずっと守っている。「玄関に花を生けてあるかねえ?玄関に花を生けるように言ってちょうだい」末期癌でもう助かりようもなく見放されてしまっている人の頼み事を実家の嫁さんには言わなかったような気がする。もう忘れてしまった。それどころじゃなかったから。だけどその言葉は実行している。花なら何でもいいんだ。もうすぐライラックが咲く。スモモも綺麗だ。梅がこの庭にはないから、椿なんだいつもこの時期は。

ガハクの退院はいよいよ真実味を増して来た。今日はっきりと先生から日程を言われたそうだ。 早くて週の半ば、もしかしたら週末になるかもしれないと。でももううちに帰って来ることは決まっているから楽しい興奮が続いている。ガハクは昨夜は一睡もしなかったそうだ。そうだろうな、分かるよ。家に帰れるなんて遠い夢のように思っていた苦しい時期が長かったから。

今日はアトリエで石を彫っていても気がそぞろで落ち着かなかった。結局、車を洗ったり、ジャガイモを植え付けたりして過ごした。

高校生になったばかりの正月に中学校の同窓生から年賀状が届いた。集団就職で関西に出た男の子からだった。「あなたは寒椿のような人でした」と一言書いてあったのを今も覚えている。誰かが見ている。見られているということをいつも意識した方がいい。信の始まりはそこにある。(K)


2020年3月6日金曜日

大天使みかえる?

階段の踊り場にかけてある小さな絵をガハクは気に入っている。だって、市販の仮縁に自分で金色の塗装までして毎日そこを上がったり下りたりして無意識に眺めているのだから。ささっと気楽に描いた絵にいいものが入るということはよくあることだ。

今日のガハクからの電話には驚かされた。夕方、呼吸器科の先生たち3人がやけに明るい顔で現れて、唐突に「外来診療ということになりました」という宣告を受けたのだ。つまり、もう来週早々には退院して、あとは自宅療養ということになった。で、ときどき通院して見て貰えばいいという。ガハクが「奇跡がまた起こった!」と興奮するのも分かる。ほんとうにこんなに早く帰れるなんて思ってもいなかったもの。まだガリガリだしヨチヨチだし。

でも、今日のレントゲンでは肺の形がかなり良くなっているから問題は何もないのだろう。リハビリのメニューもどんどん増えている。後は日常の活動で力を取り戻していける。庭を歩き回るのが今から楽しみだ。

天使はどこにでもやって来る。パッと輝く美しいシーンには必ずいる。(K)


2020年3月5日木曜日

鶯の初鳴き

今朝アトリエに出かけようとししてバックをぶら下げ歩き出した途端、足元の絨毯に煎餅のクズが転がっているのが見えた。で、突如掃除を始めた。リビングだけやるつもりが、次々と、結局一階をすっかり綺麗にした。

掃除機を止めてほっとした瞬間、庭から「ホーホケキョ 」と美しい声が響いて来た。鶯の初鳴きだ。開け放した窓から春の風が入って来る。

壁にかけてあるガハクの木版画に目が行った。これは30年前に私が坐骨神経痛で伏せっていた頃の思い出の絵だ。あの頃の苦悩を包む椿の木と渡って行く風。ガハクはいつも版木や銅板に直接に絵を描くように彫って行くので、左右が反対になる。これだって、右手に弓を持っているように板木に描いて彫ったから、刷り上がったものは左利きになっている。でもそんなこと構やしない人なんだ。

今夜もガハクから電話が来た。夜にわざわざ担当医がやって来て、「安心して下さい。このようにやって行けば元気になりますから」と勇気づけてくれたそうだ。ガハクの筋肉が日々強く太くなりますように。(K)




2020年3月4日水曜日

たなごころ


夜にガハクから電話が入った。もう緊張することもないのでサッと受話器を取って「こんばんは」とこちらから声をかけたら、向こうからは「あゝ今日はびっくりしたよ」と唐突な言葉が出て来た。また何か見つかったのかと覚悟して次を待ったら、奇跡が起きたと言う。今日撮影したレントゲンを見て先生がその回復ぶりに驚いていたと。5日間の間に急速に右肺が修復していて、あと肋骨1本分くらいの差になっているから、もうこれだと外来で対応できるレベルだと言われたそうだ。実際ガハクが見てもその変化が明瞭に分かったという。

「先生の話を聞きながら震えが止まらなかったよ」と、興奮した様子が夜になっても続いている風なのだ。治療方針もガバッと変わって、「鈴木さんは努力する人だから、どんどんリハビリして体を強くして行きましょう。辛いでしょうけど頑張って!」と仰しゃたそうだ。

「今の僕は筋肉無しのお人形だから、寂しいだろうけれど、もうしばらくここでやらせて下さい」と、奇跡のダイナミズムに揺り動かされている気持ちをそのまま伝えて来る。はい、大丈夫です。私もやっと石が彫れるようになったところだから。

今日は掌を深くした。たなごころ、美しい音だ。もっと手首を細くした方がいいなと、少しずつ削っていたら、 ポコッと向こう側に抜けてしまった。いつの間にか薄くなっていたのだ。彫り抜いてみると、腕のシルエットが際立って綺麗だ。風が通った。(K)


2020年3月3日火曜日

あたたかな手

手の指のひとつひとつを磨いては彫り直し、彫り直してはまた磨いて、少しずつ温かな手にしようとしている。この手がうまく彫れたら、顔も同じように優しい形を与えられそうな気がして来た。

今日ガハクは、担当医とその上の大先生と専門医との3人に面談したそうだ。右肺に開いた穴は、ステロイドの投与で出来たものだろうとのこと。かなり激しい治療が行われたことで起きたことだろうと。だけど、そうしなければ命がかなり危なかったのだそうだ。今やっと経過が良好に動き始めているので、もうステロイドの投与は止めて、これからは自然治癒でやっていく方針だという。二日に一度レントゲンを撮りながら観察して行くので、被曝の度合いも細かく数字を出して見せてくれたと。許容範囲なので心配は要らないとのことだ。

右の肺が左の肺と同じ大きさに戻るまで、ゆっくりと無理をせずにリハビリしつつ治して行くのだそうだから、時間はかかるだろう。でもそれでガハクの胸が元に戻ってまた元気になれるんだったら、もう何も文句はない。なんとありがたいことだろう。

スケッチブックにいたずら描きをしていたら、看護師さんに見つかって「まあ!見てもいいですか?」と血圧を測りながらじっくり一枚ずつめくって見られたそうな。「皆んなに言ってもいいですか?それとも秘密にしておこうかな」と感動されたガハクの黒いノート。確かにいろんなものがいっぱい詰まっていて素敵なんだ。絵描きとは絵が大好きで楽しめる人のことだ。(K)


2020年3月2日月曜日

トワンがいっぱい

夜になってガハクから電話が入った。「元気ですか?」と向こうから聞いて来た。大きな声だった。話しているうちに「なんか声が変わったね、優しい声だ」という。そう、私変わったのと答えた。

金土日と三日連続レントゲンを撮り続けている。「あと2〜3枚は撮ることになるでしょ」と先生が仰ったそうだ。右肺の小さな穴を観察しているのだ。先生の今日の見解では穴は止まっているし大丈夫だと、このまま治療を続けて行きましょうとのこと。リハビリも今日から再開して、体重も5キロ増えて42、5kgになったそうだ。『刻み食』といって、食べ易いように細かく切って料理してある食事がとても美味しくてもっと食べたいと食欲旺盛だ。

洗濯した着替えのパジャマにアイロンをかけた。トワンが守ってくれるようにと犬の模様のを2着買ったのの片方がこれ。もう一つのは藍色の空だ。ゆっくり着実に力が戻ってくるように、小さなトワンがいっぱいいて、いっしょにストレッチしたり、ノートにいたずら描きするのを眺めてくれている。

明日はアディタスのジャージの上着も届ける。だんだん活動的になって来て、パジャマの上から羽織るものが欲しくなったらしい。春はすぐそこまで来ている。ありがたいことに、また二人でリンゴの花を見上げる日が来る。(K)


2020年3月1日日曜日

受容

「安心して過ごしてね。もう電話はかけないでおこう」と言った通り、今夜はかかって来なかった。今日もレントゲンを撮ったはずだから、『便りのないのは良い便り』ということだ。

今どこの病院も面会禁止だそうだ。ガハクは着実に回復しているからこうやって落ち着いていられるけれど、容態が不安定な患者の家族はさぞかし辛いだろうな。

日曜日の朝はいつも掃除をしていたのを思い出して、ベランダの拭き掃除から始めた。布団を干して、窓ガラスを拭いて、カーテンを洗って、エアコンのフィルターを掃除してと、次々と目につくものから綺麗にして行った。あちこちに何年も放ったらかしだったものがあることに気が付いた。今回のガハクの生還の奇跡をしっかり受けとめる為に今日は1日頑張った。ちょうど春のぽかぽか陽気だったから、家中の窓をぜんぶ開け放って夕方まで風を通した。4月並みの気候だったらしい。

 肺はスポンジのような柔らかな組織で出来ているそうだ。そこに出来たという小さな穴のことを思いながら彫っていたら、指の間の小さな溝にぴたっと平ノミが当たって、神経がしーんと静まり返った。鋭い線は柔らかな面に囲まれた時に現れる。厳しい緊迫した状況を慌てず騒がずじっと見つめていると、すーっとしたエーテル状の霊気に包まれる。そうやって癒され作られる形はほんとうのものだ。これからはそういう嘘のないものだけを作っていこうとガハクと誓い合った。(K)



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