2019年2月9日土曜日

命の形としての死

今僕は、トワンとよく歩いた山道を歩きながら彼の姿をあちこちに出現させることが容易にできる。
想像力を使えば簡単だ。それが錯覚でないのは、彼が死んだという事実を僕が知っているからだ。彼が現実に生きていれば錯覚でしかなくなる。
(しかし、死んだというその事実も僕の記憶でしかないじゃないか?)
要するに僕は僕の記憶を使って死んだ彼を生き返らせることもできるというわけだ。しかし現実に生き返らせることは僕の同じ記憶ってやつが許してくれない。
記憶は想像力を限定的にしか働かせないようにできているらしい。
(勝手なやつだ、じゃ俺も勝手に考えてやる)
生まれて死ぬまでを命というのではなく、命というものは、生まれたり成長したり老いたり死んだりする、生まれる前から生き死も又生きる、そういうものなんだよ。そうでなければこんなにも彼の生きている姿を想像できるはずがないじゃないか。(画)


2019年2月8日金曜日

手の中に入った形

犬の形がこんなに変わるとは思わなかった。20年の間に何が起こったのだろう?彫り直す前と後では、2次元が3次元になったくらい違う。今は、手の中に包み込むように捉えて彫って行ける。トワンの裏側も内側も透き通って見えている。

そういう愛おしいものが私の中に植え付けられたのを理解した。(K)


2019年2月7日木曜日

解放

イメージが霞んでくると、心が硬く縮こまってくる。その結果、狭い範囲しか目に入らなくなり手の動きが小さくなりますますイメージが霞む。
心の解放と一口に言うけれど…
ガジュマルの花の実際の形がどうだこうだというのは些細な問題でしかなかった。
絵全体から匂ってくるものが重要だ。細部は全てその為に存在する。現実にある何かに見えるものも見えないものも、色も形も絵具のタッチでさえも最後は無意識の泉から湧き出したものでなければならない。そうでなければ感覚の解放はなく、心の解放も成長もない。(画)


2019年2月6日水曜日

兎と牛と鹿を通って犬になった

犬の顔を彫り直すに当たって石の量が足りないので耳を寝かせたら、兎のように見えて来て焦った。兎は警戒心が強いので耳を立てたり寝かせたり鼻をヒクヒクさせたりする優しく悲しい動物。

で、鼻を細く絞ったら、今度は牛に見えて来て慌てた。牛のつぶらな瞳は好きだけど、ぼんやり間延びして広がっている頭蓋が締まりが無くて気に入らない。

おでこをしっかり立てたら、今度は子鹿になった。元々トワンは鹿に似ていたから、あともう少しだ。

やっぱり問題は目だ。目にはその生き物固有の性質がモロに出ている。探るように極細の平ノミの角でじわじわ攻めていたら、やっと新しいトワンが現れた。『白い人』を見つめる強い視線だ。(K)


2019年2月5日火曜日

満開のガジュマルの花

ガジュマルの花がどうもうまく描けないな…それでちょっと試しにネットで検索してみた。
なんと知っていたはずの花と形も色も全然違う!あれ?じゃオレが見た花はガジュマルだったのか??
いや実はそんなことはどうでもいいんだよ。
Sが花咲く一本の大樹の下でスケッチをしていた、ガジュマルという樹だよという声がどこからか聞こえた…という夢。その全てを描こうというそれだけのことなんだからさ。だから思い出すべきは世間で言われている樹ではなく、夢の中に出て来たその樹なんだ。だからやっぱりその樹が咲かせていた「ガジュマルの花」を思い出さねば。(画)


2019年2月4日月曜日

ふたりは何を話しているの?

女の子の目と口元を彫り直したら、ぐっと良くなった。ふたりの会話の中身も変わったようだ。

ずっとこの子の顔をどうしようかと悩んでいたのに、今夜はちょっとやってみるかと平ノミを手に取って彫り始めたら、スッと何の苦労もなく彫れた。不思議なくらいだ。

日曜日の夜もこうやってアトリエで過ごせるという幸せを感じながら外に出たら、オリオンの位置がだいぶ低くなっていた。春がすぐそこまで来ている。(K)


2019年2月3日日曜日

絵具ねり

大理石板上に顔料を出しオイルを垂らしながら大理石の棒で練る。これで油絵具ができるのだ。
最近練り方が変わった。今までは顔料をできるだけ純粋な状態にして練っていたのだが、最近は顔料そのものの単一な色ではなく、いくつかの色の粉を適当に混ぜたりもするようになった。
自分の頭の中に浮かぶ色のイメージに近い色を出そうとしたり、コレとアレを混ぜたらどんな色になるのだろうという実験だったり。パレット上でするべきことを絵具練りの段階から始めてみるのも悪くない。そうでないと絵具練りなんてただの機械的で単調な作業でしかないものな。(画)

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