2018年6月30日土曜日

水平線

水平線のある絵とない絵がある。
自分の絵の中にある水平線がずっと気になっている。モノが描写されていてもいなくても水平線を基準にして描かれた絵。それはアカデミズムの象徴なのだ。そんな絵を嫌悪する。水平線の束縛から逃れた絵には爽快な自由さがある。
精神の水平線。そこから自由になった絵を死ぬまでに描けないものだろうか。(画)

2018年6月29日金曜日

研ぎ出す

胸の仕上げが最後になったのは、鑿痕が綺麗だったので砥石をかけるのを躊躇されたからなのだけれど、いざ研ぎ始めたら美しいじゃないの!肌合いは消えるどころか強調された。ここまで来たからには完璧を目指そう。

老婆心に唆され邪魔をされる。鬼がいなくなって初めてそれまで鬼がいたことを知った。わたしの中にババアやオニがいなくなれば、やわらかく強い意識でずっと彫って行けるだろう。(K)


2018年6月28日木曜日

画家入門

フランス人のある画商が書いたという画家の入門の手引書のような本があった。他に類を見ない種のもので何度も読み返しずいぶん精神的にも影響を受けたものだ。
その中に「いつ頃から絵を売ることができるか」という項目があった。人に自作を売る「資格」という事を言っているのだ。若い僕はそこに画家の豊かな生活を期待してワクワクしたものだったが、今では何かすごく面はゆい。こいつは「どんな絵を買ったらいいか」と書いてあっても同じだったろう。

どちらも遠い国の話を聞いてるようだと笑ってしまったが、いやこの状況はむしろとても幸運なことだと真顔で画家は思うのだった。(画)


2018年6月27日水曜日

生きている形

手で遮断された腰の左右のズレが面白い。捻れた胸とお腹と腰に砥石をかけたり、じわじわ出て来る形と変化する色合いを眺めながら彫っている。

イタリアの大理石彫刻工房では、ノミを作る人、粗彫りをする人、仕上げの研ぎをする人、磨く人のそれぞれが分業になっていて、代金を払えば図面を持ち込むだけでどんな彫刻でも作品化してくれるのだそうな。実際にレバノンの作家である知人が、そうやって作った自身の作品の写真を見せてくれたことがある。そこには商品化のレーンに乗って生産されたもの特有の形があった。最後まで意識が届かなくて途中で大事なものが死滅するのか、元々何かのコピーだからなのか、どっちにしろつまらなかった。(K)



2018年6月26日火曜日

色で語る

「陰影でなく色で見なさい」と言われた意味がやっと分かった。と言ってもその指摘の本来の意味であるいわゆる描写技術の問題としてではなく精神的な意味で。でもこの方がずっと真理に近いと思う。
僕らは絵は目で描くものではないと知らねばならない。絵は心で描くものだ。それは周知の事実のようでいて実は理解されていない。「モネは目だ。しかしこの目の力には脱帽する」と言ったセザンヌは、もちろん揶揄として言ったのだ。彼にとって目は絵画の美学的抽象化の為のツールではなかったのだから。

これからは今までのように色についてあまり迷わないですみそうだ。(画)

2018年6月25日月曜日

蘇った人

男の顔に生気が戻って来た。ぼんやりと開いていた目が、昨夜あたりからスーッと上空の一点に焦点を合わせ始めた。体全体に力が入って来たようだ。ここまで来るのにだいぶ時間がかかったけれど、一度分かると、なーんだ最初からこうやってやれば良かったんだと思うのはやっぱり勘違いか。ここが現在の到達可能な最高地点。(K)


2018年6月24日日曜日

色の純度

「向こうに見える木が青く見えるならパレットの上にある一番綺麗な青で塗れ、ちょっと色味が違うなんて言うな」というゴーギャンの言葉が身に沁みる。30代でそんな精神的境地を知った人の凄さを思う。
油絵具の青の歴史はラピズラズリに始まり相当長い。今でも青の新しい顔料が発見されているようだ。嬉しい事に古代の青より現代の新顔料の方がずっと安価だ。
青に限らず絵に使われる色なんて、どれもが美しくどれもが場を得なければ汚い。その「場」とは、例えば周囲の色との親和性などというような美学上の問題よりも、画家の精神のどこからその色が発しているかによって美しくもなり醜くもなるのだ。心の純度に応じて決まるとしか思えない。(画)

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