2019年6月1日土曜日

知識の縛り

暫くほっておいた上部を描いてみた。横の壁模様と無関係になっても構わないという簡単なことにやっと気づいた。勝手に描けば良いはずの絵を窮屈にしていたのはいつも自分なんだよな。
溶き油の配合を変えると画面がピカピカしたりツルッとしたりツンツンしたりカサカサしたり…色々な表情を帯びる。以前は半分艶くらいがいいと思っていたが最近はツルツルがいい。この方が翌日も描いた時のバルールを保てる。
実はそんなこともどこかで得た技法知識の縛りを受けていたのだった。勉強はよくない。(画)


2019年5月31日金曜日

ダンス

ダンスというタイトルにしよう。ダンスの中でもタンゴだ。ぴったりと寄り添う二人の息まで聞こえるようじゃないか。この二人、最初は女と女のように思って彫り始めた記憶がある。でももうそんなことはどうでも良い。大事なのは最後の形だ、意味は後から浮かび上がって来るものなんだ。線の明瞭さが形の美しさを生み、最後に到達したそういう美だけが存在を高貴にする。 (K)


2019年5月30日木曜日

噛み合わない1日

組んだ額にヤスリがけをしようとして動かしたら接着剤がとれて分解してしまった。再度接着してビス留めをした。ヤスリがけはできずに終わった。
山散歩をしようと思ったがパンの発酵を待たねばならない微妙な時間になってしまい結局行けずに終わった。
銅版の削りに思った以上に時間がかかり、できるはずだった線刻ができずに終わった。
いい天気だったが噛み合わない1日。
絵や彫刻や音楽の方が芸術よりずっと前からあるんだよ、知らなかった?(画)


2019年5月29日水曜日

蛇から植物へ

レースの手袋の艶かしさを出そうとしてもダメだ。狙い過ぎて泥沼にはまる。ゴツゴツごてごてするばかりだ。過剰こそ美という言葉もあるけれど、身に付かないものは使えない。いろいろ試してみて行き着いたのが植物的図案だった。葉の重なり、風に揺れる梢なら容易に気楽に彫れることが分かった。いつも眺めているからよく知っているんだ。その音までも思い出せる、ちらちら光る木漏れ日と一緒に。

今夜はやっと5本の指ぜんぶにレース模様を刻めた。明日こそ何とか指先まで届くようにしたい。初めてのことをやっている。見たこともないことを誰もやったことがないことをやっている。自由の中に降りて来るものを完全に受け止め実行しよう。安息日の内意は内的流入に従う平安のことだそうな。(K)


2019年5月28日火曜日

技法との出会い

14歳で駒井哲郎は銅版画を知り、高校時代には将来は銅版画家になろうと決意したのだそうだ。当時は日本に銅版画はほとんど入っていず、情報がほとんどない状況で変な子供だったと自書している。彼の初期の作品にはヨーロッパの銅版画家の影響がはっきりと読み取れる。
僕の場合はウィリアムブレイクを西洋美術館で見たのがきっかけだが、今でも不思議に思う。専用のプレス機などという、重く嵩張り当時の僕にとって高額でもある機械を買う決心を、この小心者がよくしたものだと、それまで銅版に触ったこともなかったのに。
しかしそれが銅版画という「技法との出会い」だったのだ。出会ってしまったら後には引けない。
油絵の場合、始めたのは高校の頃だが、その「技法との出会い」は30過ぎてからだったと思う。筆の向こうにゴッホの色彩が見えたと思った時だ。見えたからにはもう戻れない。
芸術表現にとって「技法との出会い」は必須ではなかろうか。(画)


2019年5月27日月曜日

網目からのぞく肌

レースの網目を彫りながら気が付いた。肌が糸目の間から見え隠れするのがレースの魅力なんだな。タトゥーみたいな俗っぽいものなのだ。もっとセクシーさを出さなきゃいかん。

にしても難しい。精細に彫ろうとすればするほど表面が凸凹して来て、肌の滑らかさが消えていく。ただ緻密に彫ればいいと言うものじゃないらしい。砥石で削ってみた。ぼかしたり強調したりを繰り返すしかないか。そのうちにやり方が決まっていくだろう。少し光明が見えたところで、道具を置いた。(K)


2019年5月26日日曜日

体力

銅版上の線刻がよく見えるようになったのはメガネを新調したからだけじゃない。線刻の状態で刷りの結果が分かるようになったのはやっぱり経験がものを言い始めたに違いない。例えばビュランの使い方。押し込むように彫るか、跳ね上げるように彫るかで線の状態が変わる。止めるのと力を抜くのとの違い、刻線の周りをスクレイパーで丹念にさらうのとそうしない時の刷り線の見え方の違い。点の打ち方による調子の変化。線の変化。たくさん仕事ができそうで嬉しくなる。あとは体力だけだ。(画)


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