2019年7月13日土曜日

赤い十字架

「批評を聞いていると作者のわたしは相当優れた人間だということになるらしい」と言ったのは誰だったか…。そこまで皮肉な見方をしないにしても、絵を見る人はその絵から自分なりの何かを見て取った時愉快になるらしい。印象だけでなく意図とか意味とか主題とか技法とか思想までたどり着けばそれは楽しいだろう。
その時その絵は彼らのものになるのだ。いいじゃないか。
時に作者の僕が考えてもいないことを思いついたりする。今日はある人に、赤い絵はその昔エルサレムに遠征した十字軍の旗印になっていたという赤い十字架の紋章を意識したものですかと聞かれた。思ってもいなかった。でもなんだか当たらずとも遠からずという気がするから面白い。(画)


2019年7月12日金曜日

天使の足

トワンには彼女がいなかった。交わったことはないはずだ。去勢はしていない。と言うのも、トワンが一歳になった頃村の獣医に相談したら、じっと犬の顔を見つめて「この犬は大人し過ぎるからやらない方がいいだろう。やると怯えるダメな犬になっちゃうから」と言われたからだ。確かに発情期の時期でも遠走りもせず、山に散歩に出てもいつものペースを保っていた。シェパードの血が入っているのか、仕事中はいつも冷静だった。散歩、庭の見張り、彼にとってはそれら全てが仕事だった。

そんなことを思い出しながらトワンの足を彫り直していると、足先の丸みでさえ愛おしく思えてくる。(K)


2019年7月11日木曜日

大きな「Mの家族像」の足元や周辺には猫や犬がいる。さらに彼らを囲むように広がる周辺には鳥を配置しようと思う。たくさんの鳥を描けるのではないか。
一番最初の頃の「Mの母子像」にいたのは鳥だった。今思い出したが馬を描こうとしたこともあった。だが描こうとしても遂に描ききれなくて無くなってしまう。だから鳥しか残らなかったという風にも言える。しかしなぜ鳥なのかは突き詰めて考えたことはない。
今は描こうと思えば何でも描ける気がする。技術力というよりも心の解放力の問題だ。(画)

2019年7月10日水曜日

死んで生き始める

何処をどうしたらいいかよく分かるようになったのは、トワンが死んでからだ。見ないで彫れるようになったのは、トワンが死んでからだ。私たちの間に愛があることが分かったのは、トワンが死んでからだ。死ぬとそこに無くなってしまったものの真の姿が立ち現れる。それを彫るのが彫刻なんだ。芸術とは見えないものが現出することなんだ。見ようとしない者にはどっちもずっと見えないけれど、知ろうとして分かろうとして来た者にとってはそれは人間になる契機なんだ。やっと分かった。(K)


2019年7月9日火曜日

意味の記憶、感覚の意図

マイブームの居合をYouTubeで片っ端から見ていると、忘れていた型を思い出し始めた。見ているだけでなく試技として繰り返しやってみているとさらに思い出して来た。
それで気づいたことは思い出し方だ。体にしっかり身につき忘れ得ないと思っていた型(形)は思い出せず、むしろ当時からどうしてこうなのかとよく分からず形だけ真似していた型を、そのしっくり来なかった気持ちと共に思い出す事の方が多いという事実だ。
居合の型(所作)動作というものには全て意味があり、それを知らず決まった形を繋げただけでは居合ではないから意味意図というものに常に立ち返らねばならない。そこで意味不明に思えた型の印象の方が不可解さとして強く記憶に残っていたのだろうか。
はっきりした意図なく描き始め感覚的に仕事を続けようとしても無理なのだ。偶然に置かれた色、形だとしてもすぐに僕らは意味を考えてしまう。そして次のタッチを始めるにはどうしても意味なり意図が必要で行く先をその線状に置くのだ。
それが僕らの限界を表しているだけなのかもしれない。(画)


2019年7月8日月曜日

生まれ変わるトワン

彫りながら思った。見ているようで見ていなかったんだなあって。あんなに可愛がっていたのに、今の方がずっとトワンのことを知っている。

まず耳の形が単調だ。薄く細く長い耳の三角は、遠目でもよく目立っていた。切れ上がった目の黒い縁取りの鮮やかさ。まるでアイシャドウを塗ったようだった。口元の細くきれいな唇もぜんぜん彫ってないではないか!やることはいっぱいある。10年前のトワン像の彫り直し、まずは顔から始めようと彫り直し始めた途端、トワンが現れた。さすが七夕だ。ずっと雨が降っているけれど楽しい夜だ。(K)


2019年7月7日日曜日

絵について語る

その絵について語ろうということになれば、例えば主題について構図について色について…あるいはその作品を描くにあたっての心理的な思想的な何ものか、などいくらでも話すことが可能だ。
しかし実際そうしてみると、語れば語るほどその言葉の分量だけ描こうとした衝動や描かれたその絵との一体感(または齟齬感)からどんどん遠のいて行くのを感じる。
その訳は観念が言葉になろうとする時、自意識の網にかかってしまって、手っ取り早くシェアされ易い言葉や既存のイメージにすり替えられてしまうからだと思う。正確にその絵について語ろうとするなら、本当はその絵が組み立てられた時間だけ言葉も一緒に新しく組み立てられる時間を必要とするのだろう。たぶん新しい言葉が生まれるまで待たねばならないのだ。
自然と絵画は本来何の関係もないように、日常生活の言葉と詩はなんの関係もないに違いないのだ。(画)


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