2019年4月6日土曜日

山道を歩きながら

毎日の散歩に裏山を登る。木を森を地形を見ながら歩いていると何やら言葉が浮かんでくる。漱石も虞美人草でこれと同じ感覚を書いていたのだ。これはまるで動いている脚が想念を生み出しているように思える。人は考える脚(葦)なのさ。
さてその脚が教えてくれた、絵は受容そのものだよと。そうだ描くことは受容そのものじゃないか。
今までは、表現したくなる何かが自己のうちに浮かんだら技法を選び行為し、その結果の試行錯誤を経て作品ができあがると思っていた。
それは違うんだ、表現したいものもその方法も、細部に至るまで選択権など自分にはないのだ。全てがどこからかやって来る、そして自分はそれをただ受容することしかできないのだ。自分の手の下から現れて来るものを全て受け容れるしかないのだ。描いては消しまた描くという試行錯誤は受容の結果であって途中経過ではない、描くという行為そのままを受け容れねばならない。
そんなことを山道を歩きながら考えた。(画)


2019年4月4日木曜日

後ろ姿の一致

後ろ姿を前と一致させようと、いろいろ工夫して思い立つことを全部やってみたら、やっと柔らかな線が出て来た。マントのカーブが最後に分かった。布の縁を切れるように彫っちゃいかんのね。風をはらんで揺れる布。カラーの葉ももっと美しいラインを出せるはずだ。20年の月日は目と手と頭と心を一致させた。(K)


誕生日

Kの66歳の誕生日。ケーキを作ってお祝いをした。
66歳といえば、彼女の母親はこの歳まで生きていなかった。お祖母さんもそうらしい。
そのお祖母さんの若い頃の写真を見せてもらった。彼女の義父が開拓した森の中に建てた家、その家の前に勢ぞろいした親類縁者の中でひときわ美しい姿で写っていた。それから女の血の系譜というものに関心を抱いた。一連の主題で描き始めたきっかけがそこにある。

66歳といえば、照叔父はこの歳で死んでいる。僕の父親も享年が66だ。最近急に注目し始めたパコデルシアも66ということだ。こっちは男ばっかりだ。

ケーキはすごく美味かった。二人で暮らし始めてから今日は一番いい誕生日だった気がする。この家にトワンがいない初めての誕生日なのに。(画)


2019年4月2日火曜日

群像

「群像は、彫るのも描くのも難しいね」と今朝ガハクと話していた。一つ変われば、もう片方も何かが変わらなければならなくなる。互いが刻々と影響し合って、あっちに行ったりこっちに来たりと結構忙しい。このままでもいいかなと思っていても、ちょっとでも疑問が湧いたら必ずいつかそこを彫ることなる。バイタリティと注意力と慎重さが必要だ。

今日はずっと女の子の髪にかかりっきりだった。ずいぶん小さくなってキュッと引き締まったら、人形ではなくなって、二人は双子の兄弟のようになった。(K)


必要なもの

小さな筆一本だけで描いてみた。ターレンスの赤貂、軟筆でサイズは04となっている。縦数十センチの面が相手にしては相当細い。最初は鋭かったおろし立ての筆の先が終いにはすっかりボソボソになってしまった。それでも腰はしっかりしているので使い続けた。いい感じの絵具の含み具合に思えた。
筆を発明した人は本当に偉い。筆がなければいくら綺麗な色を見つけたところで大きな面を塗ったり壁画を描いたり、まして天井画など考えもしなかっただろう。しかしきっと絵具が発明されたのと同時に筆も発明されたのだ。そして元々絵具を見つけたのは描こうという意思なのだ。必要とはそういうものだろう。
描こうと思う時、描き方が浮かび必要な道具も揃えられるに違いないのだ。(画)


2019年3月31日日曜日

ぴったりとよく似合う服

天界に住む人たちの着ている服は皆よく似合っているそうだ。靴もサンダルもその人の足に吸い付くようにぴったりフィットしているという。

この世ではそうは行かなくて、上手に着こなす人は少ない。それでも近頃は何を着ていても呆れられたり蔑まれたりすることが少なくなっただけでも随分の進歩だと思う。Gパンで大抵の場所がオッケーだもの。助かる。

髪を完璧に整えている人の後ろ姿が冷たいのは残念だ。後ろ姿が美しくて、振り向いたその顔がさっぱりしていてにこやかなのは最高だ。そういう人は、立っている自らの重心を知っている人だ。 (K)


食パンづくり

新調した食パン用の型が思ったより大きかったので今まで無理だと思っていた角形食パンに挑戦した。結果は初めてにしては上出来だった。非常に満足した。
新しいパン型は予焼きが必要とは知らなかった。今までずっと疑問だった焼きに入るタイミングもこれで解けた。
いつかどこかでたまたま知っただけの事が、まるで天下の常識のように頭の隅に泥のようにへばりついている。長い間には石のようになって固まって壊そうとしても壊れない。脳が脳自体を改良できないならば何を使って脳を改良したらいいんだろう。
自分の外側にあるものに依頼すれば、それが他人なら教唆とか洗脳になってしまう。
自分で自分を改良する為には、自分の外側に起きる出来事、大きな出会い。人との出会い、喪失との出会い、失敗との出会い、病気との出会い…そして芸術との出会い。そういう機会こそ自分の改良のチャンスなのだ。
だからこの絵も改良されなければならない。改良され続けることに価値がある。(画)

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