2019年11月2日土曜日

翼の中にディテールを刻んでみたら、少し動きが出た。もっと動かすには、強い線が必要だ。

夕暮れの畑でサヤエンドウの種を蒔いた。蒔き終わった後で、今日は一日だから種まきをしてはいけない日だったのを思い出した。でももう気にしない。そういうしきたりを守って来た土地の婆様もいなくなってしまった。だから自分がその歳になっても誰にもしきたりは伝えない。意味のないものは放っておく。そっとそのまま滅んでいけばいいのだ。消えてしまっても構わない。ほんとうに美しいものを踏み潰しておいて何が文化だ継承だ。

翼は深慮を表象している。飛び立つ時が来た。(K)


2019年11月1日金曜日

やっと回復

数日の不調から今日やっと回復。
眠れない夜とボーとした昼。座ったまま眠り、夢の中で筆を持った右手を画面に伸ばそうとして目が覚めたり、どこかへ歩くその先に森が見えたと思ったら実際の雨音で目覚めたり、橋の欄干に肘をついて風景を眺めている人をよく見たら自分だという所で目覚めたり…。ちょっと近年になく苦しかった。
しかし回復したちょうどいいタイミングで来客、専門の音楽の話は大変刺激的なものだった。美術にとってのアカデミズム、それは音楽においての西洋クラシシズム。モダンとは何か。個性独創性とは何を指して言うのか。新しい音を探したいそうだ。絵と同じだ。
また来てください♪(画)


2019年10月30日水曜日

飛翔

見えた時だけ彫るのがいい。見えて来たら見えなくなるまでどんどん彫る。生き生きとした愉快な形はそういう時にしか生まれない。足が地面から離れたら、そこらに溜まった光がこの子を押し上げているように思えた。

スエデンボルグが書いていたっけ。山道を登っているときに天使が足の裏を押し上げてくれている時は全く疲れなくてスイスイ歩けるのだそうだ。そういう日が確かにある。憂のない軽やかな気持ちがそうさせているのかと思っていたけれど、石を彫るときにも同じようなことが起きるから、やっぱり天使はいるんだな。(K)


2019年10月29日火曜日

待つ

大きな樹と人々の間の空間に鳥をたくさん描きたい。しかしとにかく遅筆なので逆にそれを利用して出てくるべくして出てくるものを待っている。僕にとって描くという行為は頭にあるイメージを画面上に明確に形作るということではなく、ぼんやりとした方向性だけを頼りに仕事をし画面上に出てくるものを「待つ」というものだ。だから明確な計画がなくても描ける。技法もまたその場限りものである場合が多い。むしろ過去の成功体験や失敗体験を参照しないようにしている。頭をまっさらにして手を動かしながら「待つ」(画)


2019年10月28日月曜日

飛べ!

首の辺りに筋が入っていたのに気が付いてはいたのだが、どんどん彫り進んでいたら昨夜突然ぽろっと頭が落ちた。まるで首を刎ねられたみたいに。アロンアルファでくっ付けようかと引き出しから接着剤を取り出したが、使い切ったらしく空っぽだった。ええいままよと、首の無くなった胸に頭を彫って新しい人を生み出すことにした。両手はすっかり削り取って、翼に手を合体させた。脚が長過ぎるから短くして、宙に舞わせた。いよいよ飛び立つ時が来た。

飛べ!内なる子よ。一切の過去を忘れて。(K)


2019年10月27日日曜日

森林率

日本の森林率は68%以上だそうだ。どうりで周りに森が多いはず…ではなく此処アガノ村は90%越えてるもんね当然だわ。すぐそこが山だし森林だから木ばかり見ている。いつからか木をたくさん描くようになった。木で画面を埋めると安心する。
今日Kチャンは彫っている彫刻の首がポンと欠けてしまったそうだ。それでも落ち込んだりせずそれをもっといい形にできる契機と考えて彫り続けたと。すごい境地に達したもんだ。
完成への道筋は一本道じゃない。これだと思って辿るも途中で途切れたり袋小路になってたり行先が見えなくなったりする。横へぴょんと跳び移らねばならない時も来る。
この木もだいぶ変わってきた。メゲずにやり続けるのが吉。(画)


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