2020年3月28日土曜日

失われし時を求めて

ガハクが子供の頃に庭に埋めて隠したブリキ箱の宝箱の中には、もうひとつ入っていたものがある。

「まだ小さかったから、将来自分が剣道に夢中になるなんて想像すらしていなかった。でも今思えば、あの頃に刷り込まれたんだね。赤胴鈴之助が大好きだったし」と、二人の剣士が刻まれた小さなレリーフをピタゴラスと並べて見せてくれた。

ピタゴラスの方は腕のいい職人が作ったような品があるが、剣士の方がずっと魅力的で見ていて愉快だ。 こういうものに惹かれるのが子供だ。子供のような純真な心を持って仕事をしたら、何をやっていても楽しいだろう。

金のことを考えて働くよりも、金のことを考えないで仕事する方がずっと面白いし、ほんとはお金だってその方が入って来る。 この事実を知っている人はほんとうに少ない。生き還った人は同じ場所には戻らないのだ。もう二度と。(K)


2020年3月27日金曜日

鶯に起こされる朝

朝の5時に鶯が鳴いた。早く起きたいのを我慢してじっと耳を澄まして聴いている。そのくらい二人とも朝が好きになった。一緒に寝て、一緒に起きるなんて何十年ぶりだろう。

今日の病院は混んでいた。3時間近く待たされたが、結果は良好。血液検査で針を刺す時「立派な血管ですねえ」と今日も言われたそうだ。ほとんどの人にそう言われるガハクの血管は、ほんとに太くてしっかりしている。レントゲンに映った肺も黒く大きく膨らんでいた。「気胸は完全に無くなっています。(聴診器の)音も綺麗です」と先生。順調にステロイドが減らされて今日から2錠になった。あと2回行けば完治だ。

帰りにスーパーに寄って刺身を買って来て、二人で握り寿司を作った。握りながらガハクは子供の頃の寿司屋の情景が浮かんで来たらしい。「思い出したよ!片手で飯を転がすように握って、その上にネタをポンと載せてすっと押さえて出すんだった」とその手付きを真似して見せる。もっと山葵を効かせても良かったねと、小皿の醤油にワサビをを足して食べた。形はまちまちだが優しい味がした。こういう寿司ならいつでも作れる。またやろう。(K)


2020年3月26日木曜日

片付け

パン型は洗っちゃダメだと知ったのは、だいぶ後になってからだ。拭くだけでいいのだ。黒い点々がパンの表面に付いてしまうのは、錆び付きのせいなんだ。もう絶対洗わないようにしてからは、スルッと抜けるようになった。気持ちがいい。

体重が46キロまで戻ったガハクは、今朝も家の中の片付けをしていた。 ICUで32kgまで痩せ細った体がだんだん太くなって行くのを見るのは、感動的だ。今日はとうとう腿の後ろに筋肉痛が出て、お尻の肉も付き始めた。腰まで来るのはもう一息だ。病院で教えてもらったリハビリ体操のメニューを毎日必ずやっている。他にも階段を上ったり下りたり。ゆっくりだが(這わずに)歩いている。その姿が美しい。

キッチンのあちこちの棚の奥に放り込まれたままになっている物をぜんぶ引っ張り出して、要る物と、要らない物とに分類した。ガハクが「基本的にふたりで暮らすために必要なものだけにしよう」と宣言したので、一々決断して行く。ほとんどの物が即決できた。要らない物ばかりだった。

「こうやって行けばきっと変わるよ。大事なものが見えてくるよ」とガハクが言う。退院して2週間経った。明日は病院へドライブだ。ステロイドがまた減らされて毎日2錠になる。新しい器を用意しなければ、新しい意識は入れてもらえないのだ。(K)


2020年3月25日水曜日

鶯のトワン

今朝も鶯が鳴いた。いつも同じ鶯だ。ガハクだけじゃない、私がすぐ横を通っても構わず鳴き続けている。ひょっとして、あの鶯はトワンかも。

スエデンボルグの霊界日記によれば、犬や猫や動物たちは、人間とは違って死んだら全般的な霊に吸い込まれて行くそうだ。鶯の声を聴いていたら、その全般的という世界がじわっと見えて来た。タルコフスキー の病室に毎朝訪れてその手にとまった小鳥のことを思い出す。トワンが小鳥になるのは当然だ。時空を超えて行き来するには鳥になるのが都合がいいし、愛しいものが纏う姿としてはぴったりだもの。

尾羽が作る空間が見えて来た。ここが決まれば、周りも影響されて優しい形がどんどん広がっていく。(K)



2020年3月24日火曜日

ピタゴラスの宝物

ピタゴラスのペーパーウェイトが出て来た。ガハクの子供の頃の宝物だそうだ。彼はこれを庭に埋めて、その場所の地図を書き、その地図もまた別の場所に埋めた。そして、地図の在り処を示す暗号文を作成して、それは手元に保存しておいた。右に何歩、左に何歩という暗号、子供らしいじゃないか。

でもしばらく経って発掘しようとしたのだが、暗号も解読できず、埋めた場所もすっかり忘れてしまっていた。随分ガッカリしたようだ。

ところがずっと後になってある日偶然にも庭でピタゴラスを発見したガハク、飛び上がるほど嬉しかったという。そうだろうな、期待していない時に与えられるのが僥倖だもの。

今夜はガハクは「絵を描くことは絵具を塗ることだけじゃないんだよ」と話しながら、コリコリコリコリ、ピタゴラスを磨いている。手が動き始めた。エングレービングみたいだ。(K)


2020年3月23日月曜日

夕暮れの畑にて

アトリエの畑にしゃがんでキャベツの周りの草を抜いて回った。夕暮れの畑にいて、あんな風に楽しい気持ちになったのは久しぶりだった。半年前に同じ場所にいて、ぽつんと一人で外にいるのが辛かったのを思い出した。何でこうも違うのだろうと考えた。まあ、スフィアがすっかり変わったのだろう。暖冬だったせいで結球し始めるのが、いつもよりひと月早い。今年もザワークラウトを作る。

ガハクの片付けは徹底している。今日は古いカセットテープやMDやビデオテープを分別していた。軽くなると高く飛べる。(K)


生き返るリンゴの木

ガハクの奇跡の生還は、このリンゴの木のイメージに重なる。

リンゴの木が私たちといっしょにこの庭に引っ越したのは17年前だ。時期が悪かったのか、土地が合わなかったのか、根っこを切り過ぎたのか、だんだん弱って来て根元からグラグラと揺れて今にも倒れそうになった。コブがあちこちに出来て、まるで癌にでもかかったような醜い姿になったのを見かねて、木彫のノミと小槌でコンコンと削ってボンドで傷を塞いだりもした。百科事典やネットで調べたら、リンゴ木には病気や虫が付き易いのだと知って、葉や枝に薬を散布したりもした。試行錯誤と観察を繰り返してついに、根元の樹皮を食い破る虫の害がいちばんの敵だと悟った。

季節の変わり目ごとに地面を掘ると、必ずウォーム(カブトムシやクワガタムシの類)がいる。手で潰して、齧られた所にボンドを塗り、和紙か枯葉で塞いでおくと、自然に復活してくれる。

初めて花がついた時は嬉しかった。実が成るまでにはそれから数年かかった。みんなで食べた。特別の香りと味がした。

ふた冬前にトワンが死んで、この庭に猿がやって来るようになった。新たなリンゴの敵の出現に右往左往した。猿は木を枯らさないけれど、私たちの食い扶持を盗み取って行くのだもの、頭に来た。でも猿との戦いにかまけていて、すっかり大事なことを忘れていた。

春の長閑な日曜日の午後、じっくり腰を据えて樹皮の修復に取り掛かった。薄皮の下に緑色が見えたから大丈夫だ。また薄ピンクの可愛い花を咲かせてくれるだろう。(K)


2020年3月22日日曜日

とろと、とろろ♪

今夜はマグロの刺身を山芋の上に載せて食べた。退院した日と同じメニューだ。こんなに野趣があって麗しい食べ物って他にあるかしら?ガハクと食べていると、すいすいとお腹に滑り込んでいく。ステロイドは食欲を増進させる効果があるそうだ。今日初めて知った。「子供だと、お皿を舐めちゃうくらいなのですよ」と先生が言っていた。

今日の診察:数値はすべて良好で順調だった。肺は立派に膨らんでいた。先生も嬉しいのか、話をポンポン進めて、これから完治までのスケジュールを具体的に決定してくださった。1週間ごとにステロイドを一錠ずつ減らして行くと、3週間後の四月十日に完治宣言の『0錠』となる。もう病院に通わなくていいってことだ♪

帰りにホームセンターに寄って、いろんなものを買った。壁にかける大きな時計、夜に足元を照らすセンサー付きライト、傘(退院の日が雨と雪だったのだけれど、まともな傘がうちには一本もないことが発覚!)、消毒用アルコールとポンプ式ボトル、などなど。

今夜は二人の意識の不明瞭さについて議論した。透明性。曖昧なままでいると必ずぐちゃぐちゃにじみあってまた元のところに戻ってしまう。そこを明確に分けた。大事なことはふたりがいつも話し合っているこの生活だ。美味しいものがほんとうに美味しくなったのはこの意識のせいだ。ステロイドのせいだけじゃない。(K)


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