2019年12月31日火曜日

感謝

今日はフラッと訪れた友人と犬と一緒に裏山に登った。隣接する砕石工場は動いていず晦日の山は静かなもの。頂上の夫婦神社にはしめ縄が飾ってあったものの荒れた感じはそのままだった。犬と一緒に山登りも久しぶりだ。トワンがいない暮れは2度目だからね。
あと1日で年も明けると思うと一年を振り返ったりしたくなるものだが、ずっと以前から時間単位で物事を考えるのをやめている。この1ヶ月で何ができたかとか、ここ1週間とか1日とか1時間とか…、そういう振り返りには甘い自己慰撫しか感じれない。
それよりも飯が旨いとか体の調子がいいとか空が明るいとか、そういうことに感謝だな、ずっと前向きだし。(画)


2019年12月30日月曜日

わざとらしい線が見えるようになると

背中の真ん中に刻んだふたつの窪みは翼を予感させる為に彫ったものだ。そこだけはいじらずに、ずっとそのままにしてある。翼の象徴のつもりなのだ。

ところが今夜は、そこから広がる大きな翼が見えて来たので、急いでずんずん彫り直した。わざとらしい線は削り落とし、柔らかい動きを探った。風に動かされて、やっとこの人の背中も美しくなって来た。(K)


2019年12月29日日曜日

尻尾のない黒猫

かなり始めの頃からこの子がすごくお気に入りで、他は描き直さない場所がどこにもないほど修正したのにここだけは全く手を入れて来なかった。昨日から修正を始めた。形を直し細部を丁寧に描く。細い筆で輪郭をくっきりさせる。少年が抱いている黒い猫。思い出すのは昔死んだ猫のこと。彼の尻尾は極端に短かかった。あなたたちが切ったのかと友人のオランダ人に真顔で聞かれ、とんでもないと答えたものだ。でも今思うと向こうでは普通にやられていることだったのかもしれない。(画)


2019年12月28日土曜日

向かい風

朝から音を立てて風が吹いていた。ちょっと迷ったけれど、やっぱり自転車で出かけることにした。立ち漕ぎをするほどではなかったが、ときどき横から押される。急がなければこのくらいの風は何ともない。

前と後ろを繋げる仕事に入った。光が揺れて綺麗だ。衣の揺れは風の足跡なんだな。(K)


2019年12月27日金曜日

イメージの混濁

伝えられたイメージにどれだけのリアリティーを感じ取れるか。
集中治療室に寝ていた母が息子の背後に見たものについて、今にして思えばもっと詳しく聞いてみれば良かった。
親類縁者たちだということだったが、その全てが故人であるような事を言っていた(懐かしい人たち)。ならばその中に死んだ夫はいなかったのかとか、幼くして死んでしまった4人の息子はいなかったのかとか。また彼らはどんな風にそこにいたのか、黙って立っているだけで動きはなかったのかとか、話しかけたりしていないのかとか。
また別にナポレオンや豊臣秀吉が現れたというのだから、彼らはどんな服装だったのかとか。家来のようなものは連れていなかったのかとか。
そこを聞けなかったのは、それが死に行く人の見る幻でしかなく、母の死という衝撃に僕の心が乱れていたからだろう。そこに幻想が持つイメージンのリアリティーを感じられるだけの心のゆとりがなかったからだろう。イメージはリアリティーを失い混濁するばかりだ。(画)


2019年12月26日木曜日

空は広くて美しい

翼の周りをいじって回って分かったこと:翼の厚みを減らした方が、胸から離れる。分厚いと却って背景に張り付いて見えるのは、物質的になるからだろう。

霊的な存在とは、見えているものの中にある光の移ろいだ。がっちりした逞ましく強そうな物の中には現れ難い。脆くて儚くて今にも壊れそうなものの中に宿る。希望とは霊力。欲望とは物欲。どっちから永続的なモチベーションは得られるか?ここまで来たらもう後は前に進むだけだ。(K)


2019年12月25日水曜日

人が人を見る

地面の色を変えた。やっぱり人物が一番難しい。絵描きの実力は人物をどう描いているかで分かると思っている。人が人を見るのだ。人の何を見ているかが形と色を通して絵にはしっかり出る。というかそれしか出るものはないのだ。技巧の巧拙は全く関係ない。人の中に何を見ているか、巧は巧なりに拙は拙なりに見えているものは出るし見えないものは出ないのだ。(画)



2019年12月24日火曜日

袖口から出てくる手

袖から出てくる腕の形が気に入らなくて荒砥であちこちゴリゴリゴリゴリ、、、しばらく削っていたのだが大して変わらない。平ノミを取り出してコンコンコンコン。。。やっと繋がった。力強い手よりも美しい光が宿るように彫りたい。そう思っていれば、そのような彫り方が出来るようになり、そのような形になって行く。そういう生き方になる。それが知恵だ。(K)


2019年12月23日月曜日

ブーメラン

将棋が強かった父親に訊いたことがある。下手な人の指し手を見たらバカだなって思う?て。答えはそうは思わないと。でもその程度の手を指すなら時間使う必要ないだろ、どうしてもっと早く指さないのかと思うと。
今日絵を教えていてそんなことを思い出した。考えてないでどんな色でもいいからさっさと描いたらいいのに、結果がすぐに出て絵がもっと早く進むのにと。
アトリエで自分の絵に向かったらその言葉がブーメランで帰って来た。そうだ、もっとズンズン描くべきだ、結果を早く出し、先へ進まねばと。
方舟の位置を手前にし、森の木を描き、地面の色を変え登る道をはっきりさせた。(画)


2019年12月21日土曜日

シルエット


深くえぐれた彫りにくいところに線を刻もうとするのだが、ノミの先が滑ってしまってなかなか決まらない。それでもノミの持ち方を工夫しては何度も彫り直して行く内に、今夜やっと底に届いたようだ。形が落ち着いた。

すると、脇の空洞も美しく見えて来る。結局、彫刻とはシルエットなのかな。完全なものは空を区切る。(K)


無意識の地形

山に行って薪ストーブ用の木を集める。落ちている木の枝や倒木を探す。あちらこちら眺めながら歩く。見つけたら集め何本か束にして担いだり抱えたりして決めた場所まで運ぶ。去年したように今日からロープでくくって引きづり下ろす事にした。
薪拾いに集中していると周りの景色を見るのを忘れる。いややっぱり見ているのだがその意識はない。見上げると木の枝が網目のように空にシルエットを作り、下を見れば小川が大石の間をズンズンと流れて行く。森や川は地形そのものを表す。その中にトワンがいたりいなかったり。
無意識に見ているものが心を満たしているのだ。(画)


2019年12月20日金曜日

裸の天使

ドストエフスキーの『罪と罰』に出て来るソーニャとワーニャをときどき思い出す。二人に女の温かさと強さの原型を見る思いだ。「他にもう一人いたでしょう」とガハクに言われた。ラスコーリニコフのように私も彼女の存在を忘れていたのだ。名前を思い出せないもの。

ラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺して金を盗んで逃げようとした時、外にいた下女だ。犯行を見られたと思って殺してしまったが、彼の心に残らないほどか細く小さな取るに足らない娘のことをソーニャは天使のように大切に思っていたんだ。ソーニャに指摘されて、彼の意識が少しずつ変わっていく物語。

善良で無垢で無名で小さな存在を天使と呼ばずして他に何と言う?(K)


2019年12月19日木曜日

雲をうまく描ける人は例外なく良い画家だ。デューラーの様な天才でも描く雲はそれなりなものだ。もっとも「それなりに」描けるということさえ難しいのだが。例えばエルグレコの描く雲は表現主義的で力強く湧き上がり聖人を包む。あゝいう風にはなかなか描けないものだ。
しかしアンリルソーの雲は特別だ。夕焼けに染まる雲、不思議な形の雲、人々が生活する上に大きく浮かぶ雲たち。多分彼の心は子供の様に澄んでいて見上げる雲に同化できるのだろう。パリの街の上空にその日その雲は確かにあったのだろうと思える。表現的でも写実的でも理想的でもない形と色。
ガハクでも心を純粋にできれば描けるかもしれない。(画)

2019年12月18日水曜日

生きている羽

型どおりにそれらしく作られたものは、仕上げれば仕上げるほど死んでいく。緻密な仕事にはどうしても退屈さが出てしまう。退屈でなければ退廃が住み着く。欠伸をしながらやったものはのっぺりとしている。誤魔化せないのは私自身の目だ。こういう時は少し寝て、お茶を飲みながら彫った方がいいのだ。

ほら、やっぱりそうだ。尾羽も翼も動き出したじゃないか!(K)


2019年12月17日火曜日

新しい色

高校の時初めて描いた油絵。教師の評価では特に色が派手すぎて調和もなし破茶滅茶で酷すぎる、繁華街に育ったせいかもなとまで言われた。そうかこの色はダメな色なんだなとその絵を見ながら思った。美大の受験に失敗して入った予備校で最初に描いた油絵はいい色の感覚をしていると褒められた。そうかこの色はいい色なんだなとその絵を見て思った。
絵にとって「いい色」とは何かという問いに正確に答えるのは実に難しい。言えそうだからなお難しい。自分がいい色だと思う感性だって時や環境や出会いによって変化する。勉強して鍛えることもできる。しかし迷い道に入り込んでしまう。その時は戻ろうとするより前に進んだ方がきっといいのだ。
来れ新しい色の世界よ、広がり我を包み高く飛び立たせてくれ。(画)


2019年12月16日月曜日

尾羽

画材屋で売っている羽箒は白いが、自作のは黒い。カラスの羽で作ったからだ。山道を散歩していると、よくカラスの尾羽が落ちている。カラスはよく喧嘩をするからなあ。たくさん溜まったら輪ゴムで縛って、消しゴムのクズを払い落とすのに使う。

春の頃、ガハクがヤマドリの尾羽を拾って来た。見つけた時はまだ血が少し付いていたそうだ。10枚ほどの長い尾羽がずらり並んで揃っていたから、きっと猫か猛禽類にやられたのだろう。長く大きな羽に薄茶色と黒の縞模様がくっきりと鮮やかだ。モチーフに使った後、今はガハクのアトリエの壁に飾ってある。

今朝はジョウビタキが来た。長い尾羽をちょんちょんとタクトのように縦に振る。チッチッ、、、チッチッと鳴く様子が火打ち石の音に似ているから火焚き(ヒタキ)と呼ぶらしい。

今夜はこの子の尾羽にも模様を刻んだ。(K)


2019年12月15日日曜日

ゴーギャン

ゴーギャンの島での素行が悪かったという理由で彼の作品を美術展からボイコットすべきという風潮があるとか。昔の話ではなく最近の話。白人の優位性を利用して島での特権的地位を築き、複数の女性を性奴隷として扱っていたと。
ゴーギャンは書いている。白人の女性は「美しすぎる」故に我々に劣情を起こさずその裸体を見ることを許さない。島の女性は常に裸に近い姿で暮らし裸体はむしろ自然な姿であり実に自然で神々しいばかりだ、これこそ美だと。
彼の「性奴隷」であるはずの女性の肖像画は入念に愛情を込めて描かれている。そう思って見れば確かに性的刺激には遠いかもしれない。しかし見事に美しいではないか。

馬を描いている。(画)

2019年12月14日土曜日

緑の楽園

袴の線、帯の線、指の線、尾羽の線、あらゆる線がこの子の背後で重なり交差している。そういう景色を薄肉彫りでやっている。虹のように見えて来たり、川の流れのようであったりもするけれど、何かになりそうになるとすぐに引き返してきっちり刻むようにしている。その方が嘘が混じらずに美しいところに行けるようだ。必然的なものは待つしかない。新しい形が現れるまで、彫って、削って、探るのだ。

中村哲医師が土地の人たちと作った緑の園がとても美しいのに驚いた。水が子供を守る、水が人の健康を作る、だから水を引こうというところまで辿り着いたのだそうだ。

「私が死ななければあなたたちのところに来ることが出来ない」という意味が分かった。水を引け!(K)


2019年12月13日金曜日

ジプシー

ジェリコーは出世を夢見てイギリスに渡った。セザンヌはドラクロアと同じだけの名声を求めてルーブルに作品を買い取らせた。ゴーギャンは計算高い男でゴッホとの共同生活も金に困っていたからだった。多くの優れた画家にこういう性格の歪があるのはよく知られている。彼らの作品の素晴らしさと低劣な思想とのギャップをどう見たらいいのだろう?宮沢賢治は昼休みにテニスに興じている教師なんかに教わる事は何も無い、と批判した。でも実際にはテニスと教師の指導技量とは何の関係もない。
もしかしたら僕らが彼らの中に見ているものは己自身の低さでしかなくて、その奥にある大きな愛や真実や美に気づかないだけかもしれない。
一方でレイシズムとか原理主義とか優生思想とかいうのは無知や無能や無教養でしかない。そんな人達の考えや作品など全然無視して構わないのだ。

群像の左側の人物たち。世界の外れものたち。(画)


2019年12月12日木曜日

退屈しない困難

何かをする時に面倒臭いと思うことがなくなって来た。誰かに何かをしてやったときの恩着せがましい気持ちも湧き起こらなくなった。自分は損をしているとか、得をしたということに一々揺れ動かされる機会が減ったのは良いことだ。

足の間や脇の下の、狭くて奥まった場所に砥石を当てがっていると、バイオリンのトリルの練習を思い出す。指を上げたり下げたり間怠っこしいったらありゃしないのだけど、それでも続けていると、それなりに出来るようになって来る。誰に聴かせるでもない音。誰に見せるでもない形。困難なことをやっている時はぜんぜん退屈しないことに気がついた。そういう時って、自分はこの困難を超えられと信じているようなのだ。苦しいのだけど、楽しさがある。(K)


2019年12月11日水曜日

独創

背景の色を変え人物の位置と顔を決めようとしている。思えばこの人たち、描き出した頃に比べて寸法がずっと小さくなっている。何度も描き直していくと小さく締まって来るというのはよくあることだが、これは度が過ぎる。まあそれでもその方がいい、むしろ適性な大きさに近づいているのだ。
ジャコメッティがある日突然粘土で作る人物像が制作しているうちに小さく小さくなり、終いにはヘラの一突きで壊れて消えてしまうという話は有名だ。同じように絵でも何度も何度も描き直し遂に画面上には何もなくなってしまったというのも。
そういう人がいてくれたおかげで形式からの自由と孤立を恐れない勇気を貰えたのはおそらく僕だけではあるまい。それが独創に繋がらないとしても。(画)


2019年12月10日火曜日

翼か手か、どっちを選ぶ?

胸が茜色の空に見えるようにと、翼の輪郭の周りをそっとそいで回った。胸に張り付いていた翼がやっと離れて少し動き出したように思えた。

彫りながら考えていたのは、翼か手のどちらかを選ばなければならないとしたら、どっちにするだろうと。鳥は手の代わりに嘴を使う。嘴で巣も作るし、子供の世話もする。翼で覆って守っている。空も飛べる。遠くまで行ける。

でも手はいろんなことをする。石を彫ったり絵を書いたりするのは、空を飛ぶことと等しい。心の中に水を引く。荒れた大地を耕すように、崩れても壊れても無視されても何度も何度もやり直して築き直しているんだ。 だから太古の昔から美しいものだけが繋がっている。(K)


2019年12月9日月曜日

異次元の画家

数十年前、自分の絵に迷っていた頃この図に出会ってこれだ!と思った。
*ルナール⦅モルッカ諸島魚類彩色図鑑⦆(1718-19)から転載された図像に驚いた。今まで見たことのない物象を見たときの画家の驚きと感動、そしてそれを伝えようとする熱意がそこにあった。まるで子供のような無垢なものの捉え方が異次元世界の存在を表現している。
赤ん坊が生まれて初めてものを見た時の驚きは、まるで宇宙人が初めて地球上の事物を見た時のような違和感をも伴っている。しかし同時に大きな神秘性を感じ畏敬の念さえ持つに至る。
そんな風にものを描けないかと思うようになった。赤ん坊のような無垢な心、宇宙人のような異次元感で絵に向かえられればと。そんな不可能な目標を常に念頭に置いて絵を描こうとしている。だから知るのを止め見るのを止めればと思ったのだった。益々年齢を経た地球人でしかない画家にとっては到底不可能な領域でしかないのではあるが。
*荒俣宏 世界大博物図鑑②「魚類」より



2019年12月8日日曜日

ポスト真実

真実に耐えられないからって、それに置き換わるものを求めて、ぼんやりとした曖昧なままでいられるように、決定と決断を先送りにして暫定的価値基準を捏ね上げる若い人たちがいるそうだ。そういう若者のことをヘタレとか情弱とか言われるのだけれど。何かの躓きをキッカケにして引きこもってしまった人を家族が匿うようにして暮らしている様子が外から見ても感じられる家がある。でもどうしようもない。そういう家の前に立って「出ておいでよ」と叫ぶわけにもいかないし。

異国の地で水を引き荒地を復活させた人がいる。誰が見ても彼がやったことは善だと思うだろう。だのに、殺された。政治的な争いに巻き込まれてしまった。広告塔のように使われると引き落とそうとする者らが出て来る。共通の神とは、一切の悪とは関係のないところにあって、善と美と真理が一致したときに立ち現れる。(K)


2019年12月7日土曜日

ノアの方舟

人生が再度やり直せるものならばそうしたいと思わないでもない。しかし赤ん坊からやり直すのはいやだ。だってあの子供時代そして青年期のものすごく退屈な時間を延々と過ごす事になるんだよ。いやどこかの時点からでいいと?じゃそこはどこがいい…?数十年前のあの時か?いや何年か前の?それとも…と随分迷って決められないよきっと。
今までの一切の記憶はなしでの再始動ならばって?…いやそれは何だか結局今とほとんど変わらない人生になるのが精々で、逆にもっとずっと悪い運命に落ち込みそうな気さえする。
きっと人生を新しく始める人間には善へのよほどの強い意志がなければいけないってことなのだ。
ノアの方舟はそれを示唆しているんだよ。(画)

2019年12月6日金曜日

美しい話をしよう

明け方の夢はいたってシンプルだった。丘を登っている自転車放浪者が野犬の群れに襲われているのが遠目に見えたので、慌ててガハクに「救急車呼ぼうか?」と話しかけたところで目が覚めた。まだガハクはぐうぐう寝ているから、あゝこれは夢かと気が付いた。

海外で善き活動をしている人が銃で殺されたというニュースがこの夢に反映している。暗澹たる思いにさせようとして霊達が私の記憶の中にある人物や風景をピックアップしてこしらえたショートムービーは小さな箱庭の出来事だった。夢の主人公になった自転車おじさんは、実際にこの辺りをいつも行ったり来たりしている実在する人物だ。どこで寝泊りしているのか不明。パンを買って食べているのを見かけるから、お金はあるのだろう。誰かと話しているのを見たことはない。アトリエに行く時によくすれ違うから、向こうも私の顔を知っている。生き方もいろいろだが、丈夫な体でいる限り彼はああやって過ごすのだろう。自分の運命を変えようとは思わないのかな?

人は意識が変わらなければ何も変わらない。まず内側から湧き起こる切羽詰まった意識の革命があって初めて動き出すんだ。(K)


2019年12月5日木曜日

絵を描かずには死んでしまう?

山に行くと未だにトワンの重みを感じる。でも数ヶ月前に比べれば今はずっと身軽だ。風景のどこにでもその姿を浮かべるのは容易なのに以前より悲哀の感情はかなり薄い。
画家とは絵を描くのが好きで、それが高じると取り憑かれたように描かずにはおれない人々のことを指す。僕はそういう人達のことを畏敬の念で眺める。自分がそうだからではなく、そうではないからだ。
だからこそ絵描きの指南書に「絵を描かずには死んでしまうと告白する君こそ画家になるべきだろう」とあるのを読んだ20代の若者の忸怩たる思いがその後40年以上ずっと錘のように身につきまとっていたのだった。
思えばずいぶん長いことぶら下げていたなぁ。(画)


2019年12月4日水曜日

服の中身

ほんとうに美しい人ならその人を包んでいる衣の襞さえも美しいだろう。そういうことを考えながら、誰も気が付かない後ろの下の方の柔らかな布の揺れ動く様を出そうと、平ノミで抉っては、荒砥で擦ったりしていた。

今夜は秩父夜祭りだから帰り道はさぞ車が多いだろうと思って国道に出たら、10台ほどに追い抜かれただけで大したことはなかった。マナーも良かった。私の自転車を大きく避けて通り過ぎて行く。オリオンを見上げて走る季節になった。(K)


2019年12月3日火曜日

絵の発見

絵を描きたいと思った人が色を発見したのではなく、絵の発明と色の発見はおそらく同時だったに違いない。素材の発見が表現を生んだのだ。表現への意志があり表現形式を求めたのではなく、焚き火の後の消し墨の色を見た古代人がそれで絵を描き始めたのだ。黄色い泥、焼けた窯跡に見つけた赤い色などは独自の絵の形式を可能にしていく。
表現に優先するものは意志ではなく愛だ。結婚の意志があり愛が生まれるのではなく、愛する人を見つけた時結合への意欲が起こるように。
一つの色一つの形一つのタッチから表現が生まれることだってあるのだ。愛は全てのものに優先する。(画)


2019年12月2日月曜日

無知の領域

柔軟体操はもう30年やっているけれど、体が柔らかいだけじゃダメなんだと気が付いてから筋トレを始めて早5年3ヶ月。それからは腰痛が出なくなった。

ガハクは今年の春から腕立て伏せを始めた。それから少しずついろいろ足して行って、とうとう居合もやり始めたから、急速に筋力が付いている。やるとなると本気度が違う。刀は最近ずっと二階の画室に置いてあって、寒くなると刀を振っているらしい。

これから未知の領域に踏み込む。だから精一杯の準備をしている。そういう気合いが彫刻の背中にも現れて来た。 (K)


2019年12月1日日曜日

林檎の樹の精霊

ゴッホの「花咲く林檎の樹」というのを画集で見た時から絵よりもその題名に妙に惹かれたままだった。実際に林檎の花を間近で見ることができたのは我が家の庭。土地に合わないのか死にかけた樹を妻が大変な労力をかけて世話したおかげで綺麗な花をつけ、実まで立派に成らせた。僕にとっては樹が再生したことよりも彼女の努力が実を結んだことの方に感動したのだった。(画)

2019年11月30日土曜日

袴の襞

背中からだんだん腰の方へ彫り進んで、はたと困った。ついこの間、袴の襞の取り方に感心して眺めていたはずなのに、もう忘れてしまっている。どうだったっけ?と、家に電話したくなったが、我慢した。ガハクもきっと絵を描いている最中なんだからと、すっと横へ飛んで肘の方へ彫り進むことにした。

家に帰ってすぐに壁に吊るしてある袴を仔細に点検。やっぱりそうだった。中央の襞は左前に少し重なるように縫い合わせてある。着物の襟元と同じだ。

彫刻なのだから服や着物も勝手に作ればいいというのでもない。気になるときは何かそこには大事なものが隠されているんだ。背中に羽が生えていても、帯と袴はきしっと決めたい。(K)


2019年11月29日金曜日

季節感

アトリエの隅のキャンバスの束にかけてあるシーツをめくって中を見てみた。出来の悪いものばかりだ。どうしてくれようと思った。このまま放っておくのは忍びない。描き直せそうと出して並べ始めたら際限がない。こういうのがあるのをしっかり記憶しておく事にしてまた元どおりに積み直した。
絵を描く時「季節」を考えませんか、と聞かれたことがある。その時個展会場に並んでいた絵は黒い色しか使ってなく揶揄に過ぎなかったかもしれないが、記憶に残った。
一枚の絵を長く描いていると季節を跨いで一回りしたりする。咲いたリンゴの花の絵を冬に仕上げるというのもおかしいか。(画)

2019年11月27日水曜日

背中の一本の光

背中を彫るために投光器を柱に取り付けて照らしてみたら、思いがけず集中できた。気を良くして(電気代も気にせず)スポットライトも点灯。どこを彫るにも手元が明るくてやり易かった。

以前『ペルセポネー』を彫った時、毎晩スポットライトで照らしていたのを思い出した。最古代エジプトの彫刻が美しいのは、太陽の光の角度のせいだと思えたからだけど、もっと大きな理由は、疲れた体とぼんやりとした意識を何とかしたかった、そして前に進むキッカケを探っていたのだった。

今夜は背中を彫るのが楽しかった。やっと背後で繋がった。背中の真ん中にすーっと伸びる光の筋に護られて立つ。(K)


水は止まらない

トワンの山道を登った。久しぶりだ。この前の台風の大雨の痕が山道にくっきりと残っていた。桜の木の下の岩が流水で根元まですっかり剥き出しになり崖のようになっている。道から見上げるような具合に切り立って見えるのが恐ろしいくらいだ。いつ崩れてもおかしくない。ここには来ない方がいいかな。トワンもそう言っているかもしれない。このように周りの景色も変化して行くのだ。
川はとどまることを知らない流れる水を持つからこそ川なのだ。(画)


2019年11月26日火曜日

肩を撫でて行く雲

もうほとんど出来ているように見える。が、今まではここから先に踏み込めなかったんだ。この先に行ければ内部にいっぱい温かいものを宿すことができる。胸元の雲が肩の山を撫でながら過ぎて行く。夜の8時を過ぎたらすーっとconcentrationの透明な意識が降りて来て、左脇の筋肉が楽になった。時間の奴隷となるか、自らを奴隷とするかで違って来る。(K)





2019年11月25日月曜日

気を消す

居合で難しいなあと感じている事の一つに「気を消す」というのがある。これから何をするかを悟らせないという事が技には必要なのだ。相手の殺気を感じその先をとるのが居合だから相手にこちらの「気」を感じさせてはいけないという訳だろう。でもこれが中々難しい。速さと正確さを両立させようと気持ちを集中させればさせるほど自分の表情にも体の強張りにもつい出てしまう。だからといって行為をする時の気持ちがなければ刀を使った格好だけのものになってしまうに違いない。実際そんな感じの居合を見ることがある。だから「気」がありながらその「気を消す」。
絵でも同じことが言えそうだ。描く意図や意志や意欲を絵の表面から消したい。(画)

2019年11月23日土曜日

翼を広げて

翼を腕まで広げた。襟元から覗く肋骨の起伏は、山の上を流れて行く白い雲のようだと思いながら彫った。いつか見たものが、彫刻の中にふいに現れる。善いものは忘れていてもまた戻ってくる。夜になっても降り続いているこの雨は音がしない静かな小さな粒だ。(K)


描くものがなくなるまで

消えたと思った人がまた現れさらに人が増えて来た。どこまで増やせるか試してみよう。
イメージの定着に必要なのは人がよく言う「筆力」とやらではなく自由度なのだ。頭でなのか心でなのか「見ている」ものを描くのではなく、絵の中に「見出す」自由さだ。必要性でもなければ必然でもない。主題に適っているかでもない。もしかしたら行きがかりかもしれない。とにかく描くものがもうこれ以上ないと思えるまで描く。(画)


2019年11月22日金曜日

猪の襲撃

野原にジャガイモを適当に埋めておくだけでよかったのは30年前。数年したら猪が現れるようになったので、トタン板を巡らした。でも棒っ杭で挟んでおくだけで十分だった。今思えば、あの頃はまだ長閑だった。

今年は台風の夜に猪にごっそりカボチャを盗られて、それからは度々やって来るようになった。簡単にうまいものにあり付く方法を覚えたのだろう。安易な生活に浸っている人々のことを重ね合わせてさすがに今夜はげんなりした。今日の襲撃がこたえたのだ。白菜が全滅。綺麗に洗って食べるからまあいいんだけれど。

張り付いていた翼がだんだん離れて胸が空に見えて来た。青い空までもう少しだ。(K)


2019年11月21日木曜日

大壁画

トワンが光っている。この方がいい。可愛くなった。ついでに後ろの人物を消した。この方がいい。曖昧でいいからといっても要らないものは要らない。そうしたら群像全体がスカスカしてきた。集合体として描いて来たからこれは方向を間違えたか…いやそうではなくこの状態から次に何が出るか何を出していくかを考えた方がいいだろう。それにしてもこれだと完成までにまだまだ時間がかかりそうだ。
モネの睡蓮の絵が新聞紙に載ってた。あの大きな壁画を描いたのは彼が80歳を過ぎてからの4年間だということだ。ガハクの13年後。あるのかないのか遠いのか近いのか。(画)


2019年11月20日水曜日

花の底


掌をそっと彫っている。そこは重い石の底面だから動かす時もそっとやらないと指が欠けそうだ。それでも指を花びらのように彫れそうに思えて来たから、今夜は最高な気分。

自分が思うように好きなように彫っていいのだと分かっていても、実際にやれるようになるまでには色んなものが剥奪されねばならなかった。彫り直してすっかり変わったこの彫刻のいちばん美しい場所がここ、花の底、光が集まる場所だ。(K)




2019年11月19日火曜日

ぼんやりした絵

写実は勿論のこと、抽象とか象徴とかにしたくない。寓話性の強い絵を描くべきかと思った時もあったが今は特に思わない。と言うよりも何かの観念とか思想とか言葉が先立つような絵を描きたくないのだ。
イメージに始まってイメージに終わる。情緒や感情が生まれてもそれが形をなさないまま、そんなぼんやりした宙ぶらりんの状態の視線にいつまでも耐えうる、そんな絵を描きたい。(画)





2019年11月18日月曜日

ここ彫れワンワン

足の裏が彫り難かったけれど、 ヤスリと砥石で少しずつ削ってなんとか浮かせた。あとは、手のひらが花びらのようになればいいのだけれど。この子の空間がだいぶ広くなった。窪地の底にノミの角を当てて、細い線を刻もう。柔らかな陰影を楽しみながら、ずっとここで遊んでいてもいいのだという覚悟をもってこの彫刻に付き合うのだ。私の時間などなんでもない。ずっと向こうまで広がる景色を見つめている。(K)


2019年11月17日日曜日

絵がイメージを求める

地面の色を塗り替えた。今までの色がひどく褪せて見えた。この方がずっといい。画面全体にもっと思い切った治療が必要だ。
自己のニュアンスに徹底的にこだわるべしと思って来たが、毎日少しずつ、気づかぬくらいに少しずつ真っ直ぐな道から逸らされ、それが続きいつの間にか思わぬ脇道に連れ去られてしまうらしい。覚醒した意識の持続はかくも難しいものなのか。
今日一つ分かった。大事なのは自分のイメージを絵に定着させる事ではない。自分は常に変節堕落するものだから。そうではなく、この一枚の絵が要求するイメージを正確に受け取りそれを表現することにあると。(画)



2019年11月15日金曜日

翼の美しさ

羽の美しさは光の反射と色の輝きだと思っていたが、飛翔する力を宿しているから美しいのだと分かった。この子の腕が後ろに大きく引かれるとき、空がその翼の形をくっきりと描き出す。翼の角度、その奥行きをいくらいじってもダメだったのが、首と腕の間にできる空間を広くとったら、やっと肩から腕を通って翼の先まで力が行き渡った。体のどの部分も飛ぼうとしてる状態は、夢中で、可愛らしくて、美しい。(K)


当たり前のこと

体調不良から回復してみると、毎日目の前にしていた絵がずいぶん縮こまった姿をしているように見えた。色も冴えなければ何だか主張も弱い。何の為にこの絵なのか。いや目的などどうでもいい、描きたいという気持ちが生まれている場所がどこなのか?
画面をナイフでガリガリ削り新しい色を塗りつける。たくさん絵具がいる。大きな絵には大量の絵具が必要だ。 そして塗る作業時間が必要だ。当たり前のことをサボっていたらしい。当たり前だからサボっていたのか?不思議なことだ。病み上がりには病む前に気づかなかった色んな当たり前のことが見えて来る。(画)


2019年11月14日木曜日

病んで知る

丸一日伏せっていたから、体に力が少しずつ湧いて来るのが分かった。だんだん飛び始めて、最後は翼をもっと細くした。その方が高く舞い上がれるだろう。空もずっと広くなる。胸に喰い込んでいた翼をそっと離した。この胸があのセルリアンブルーの空に見えるように、明日も磨いたり削ったりしながら傾斜と陰影を探って行く。(K)


2019年11月13日水曜日

ゴッホ

ようやく体調が回復して来たと思ったら今日は妻が寝込んでしまった。そうなると今日の一日の時間をどう過ごすかがひどく難しかった。毎日の時間を二人一緒に使っているのだという事を痛感。深夜に近づいてやっと制作できた。
今度ゴッホの映画が新しくできるそうだ。俳優も監督も超一流らしい。ゴッホはいいよね。僕はいつもゴッホの悲劇的生涯と彼の絵の美しさを考えるといつも勇気が湧いて来るのだ。絵を描くというのは夢のような時間を生きるということだし、自分ではない誰かの人生を過ごすような気持ちがする。(画)


2019年11月12日火曜日

名のない小鳥

今朝メジロが庭にやって来た。十羽くらいの群れがさーっと流れて来て林檎の小枝にとまった。しばらくしたらまたさーっと次の木へ移って行く。その姿のなんと可愛らしいことか。
「メジロはよくシジュウカラと一緒にいるね。も少ししたらエナガたちも来るよ」とガハク。

今夜も翼の形を直した。蝶のようだったのが、やっと鳥になった。 小鳥にも個体差があるのだろうが、メジロはどの子もメジロだ。天使はどれも天使だろう。名はない。名を求める人は天使にはなれないということだ。それでもピアソラは名を残すだろう。今夜はYouTubeでピアソラをひたすら聴いた。顔を真っ赤にした老人がバンドネオンを艶っぽく熱く弾いていた。若い演奏家に囲まれて。永遠なる人だ。(K)


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