2020年1月4日土曜日

自分の真似

人の作品を真似してもいいが自分の作品の真似をしてはいけない。過去の成功体験など思い出すのは害しかない。失敗体験ならまだ利もあるだろうが。
上手くいかない時に限って過去を参照しようと脳が働く。色の記憶、形の記憶、知識の記憶、とりわけ感覚の記憶がどうしようもない不自由さを生み出す。思い出してはいけない。特に直近の記憶を。
(認知症まっしぐら?w(画)


2020年1月3日金曜日

後ろ髪

大晦日にガハクの床屋をしたら、いつになく上手く刈れてとても満足した。そしてその夜いつものようにアトリエで彫り始めたら、彫刻の方がモデルよりも先行しているのが分かった。

画家が(ピカソだったか?)、肖像の依頼主から絵の中の人物が自分に似ていないと文句を言われた時に「そのうちあなたの方がこの絵に似てくるから心配するな」と、そのクレームに全く取り合わなかったそうだ。

人の内側まで見通す目を持つ必要なんかちっともなくて、外側にすでに出ているものをじっと見つめるだけでいいんだ。気質を知ると形の方が勝手にすーっと湧いてくる。それに反応して素直に手を動かすだけだ。

今夜は後ろ髪から降りている細い捻紐を丹念に彫った、二重らせん構造のDNAを思い出しながら 。(K)


2020年1月2日木曜日

第一日目

今日も山に薪を拾いに行った。砕石工場の騒音のない静かな森の中で枯れ枝を集める。斜面をトラバースしたり登ったり降りたりしていると体が軽い。楽に動き回れる。体調だけでなくトワンの喪失感からだいぶ遠ざかったからだ。トワンと暮らしたこととトワンを失くしたことの両方がこの自由感を与えてくれたのだと思った。孤独の自由。
芸術の中で独創というものは重要な一つの要素だと思って来たが、そうではなく独創のみが芸術なのだと気づいてみれば、何のことはない。ただ絵を描いていればいいだけなのだ。
今年はただ独り冒険の旅に出る。第一日目。(画)


2020年1月1日水曜日

輪郭

袴の後ろ姿を夢中になって彫っていて、ハッと我に帰って慌てて前に回ってみたら、やっぱりそうだった。ウェストが極端に細くなってしまっている。右腰はまだ良いが、左腰が極端に薄い。でももう知っているんだ、悪いことは善いことの始まりだって。

内なる人の翼の輪郭を強くした。帯のカーブをはっきりと刻み直した。柔らかで明確な線は量を感じさせる。か細く脆い方が気高い。だから彫り過ぎを怖れてはならない。見えているのに歩み出さないことの方が意識を鈍くするのは何度も経験済みだ。言い訳ばかりの口達者にはもうウンザリだから、どんどんストーリーを進めよう。(K)


2019年12月31日火曜日

感謝

今日はフラッと訪れた友人と犬と一緒に裏山に登った。隣接する砕石工場は動いていず晦日の山は静かなもの。頂上の夫婦神社にはしめ縄が飾ってあったものの荒れた感じはそのままだった。犬と一緒に山登りも久しぶりだ。トワンがいない暮れは2度目だからね。
あと1日で年も明けると思うと一年を振り返ったりしたくなるものだが、ずっと以前から時間単位で物事を考えるのをやめている。この1ヶ月で何ができたかとか、ここ1週間とか1日とか1時間とか…、そういう振り返りには甘い自己慰撫しか感じれない。
それよりも飯が旨いとか体の調子がいいとか空が明るいとか、そういうことに感謝だな、ずっと前向きだし。(画)


2019年12月30日月曜日

わざとらしい線が見えるようになると

背中の真ん中に刻んだふたつの窪みは翼を予感させる為に彫ったものだ。そこだけはいじらずに、ずっとそのままにしてある。翼の象徴のつもりなのだ。

ところが今夜は、そこから広がる大きな翼が見えて来たので、急いでずんずん彫り直した。わざとらしい線は削り落とし、柔らかい動きを探った。風に動かされて、やっとこの人の背中も美しくなって来た。(K)


2019年12月29日日曜日

尻尾のない黒猫

かなり始めの頃からこの子がすごくお気に入りで、他は描き直さない場所がどこにもないほど修正したのにここだけは全く手を入れて来なかった。昨日から修正を始めた。形を直し細部を丁寧に描く。細い筆で輪郭をくっきりさせる。少年が抱いている黒い猫。思い出すのは昔死んだ猫のこと。彼の尻尾は極端に短かかった。あなたたちが切ったのかと友人のオランダ人に真顔で聞かれ、とんでもないと答えたものだ。でも今思うと向こうでは普通にやられていることだったのかもしれない。(画)


よく見られている記事