2018年12月29日土曜日

水先案内人

樹の厚みを出す方がいいか迷っている。樹の膨らみというのは樹の立体感そのものを生み出しているわけだから自然な感じを演出するには必要だけれども。しかし今それは必要だろうか。
今、頭にあるのはギリシャの壺絵のような単純な線と色面の抽象的な美しさ、あれに及ばずとも近い何かにしたい。
自然さより不自然さ=違和感こそが必要だ。そしてそれが精神的な奥行きへの水先案内人であって欲しい。
手段は明確な線と美しい色彩だろう。(画)


2018年12月28日金曜日

失われたもう一人の自分

溶け合うようにくっ付いていたピアノとピアニストの間の空間を広げた。

思い出すのは、ブランクーシの接吻という男女が抱き合っている姿をシンボリックに彫った石像と、音楽を奏でることは情事であると言ったグレングールドの言葉。

プラトンのいう高次元の愛のイメージとは、もう一つの失われた自分と合一することを目指しているのだそうな。やっぱりそうか、そうであるなら嬉しい。

終わることのない競争と殺戮と支配欲の世界のどこに美があるだろう?完全なものになりたいという夢を持ち続けている。そこからしか生きる意欲は湧いてこない。  (K)


2018年12月27日木曜日

永遠性と時間

神は宇宙の永遠性を人に気づかせる為に時間というものを創出した。と書いてあった。
音楽は時間がなければ成り立たないのに音楽を聴いている時は時間の推移に気づかないでしょと。また永遠を感じさせるものは芸術にしかなくそれを感じさせない芸術に一級品はないとも。
ギリシャの神々の中でゼウスに一番近い偉大さを持つのはエロス神で、ゆえにエロスこそ神そのものなのだと。そして宇宙を作り出したのは神なのだから、永遠なるものこそ「美=エロス=愛」だと。

アトリエで絵の合間にストーブの前に座ってそんな風にシモーヌヴェーユを読んでいる。(画)


2018年12月26日水曜日

月の音が聞こえる

石を彫りながら色を感じることはあるけど、音まで聞こえて来たのは初めてだ。このところ 冬の満月に照らされて自転車で走っているせいかな?

「椅子が少し窮屈じゃない?」とガハクに言われて、椅子の脚と背当ての位置を慎重にずらして彫り直した。そうしたら、ピアニストがゆったりと楽しそうに弾き始めた。森がぐっと近くに寄って来た、もっと彼の歌を聴きたくて。死んだ人たちが蘇る満月の夜の森。(K)


2018年12月25日火曜日

トワンをまた描いてます

「絵で死ぬ」
①自分よりも大きな才能に出会って筆を折るという話を時々聞く。間違いだ。至高の芸術は人をその道に優しく励まして誘うものだ。絵描きなら自分でもあゝいう絵を描きたいと思わせるものだ。
②最高の絵が描けた時これならもう死んでも良いと思えるか?間違いだ。絵描きならこんな感じでもっとたくさん描きたいと思うに違いない。
同じ主題の繰り返しだったりするのも一つにはこの絵では不十分だからだし、もう一つはこれならもっと描けるはずだとも思うからだ。
それが愛するものを描いているなら尚のこと。(画)


2018年12月24日月曜日

森に響き渡る声

ピアニストの輪郭を深くしたら生き生きとして来た。少し笑っているようにも見える。歌が森に広がって鹿がスッと動き出した。

何が何のためにあるのかはずっと後になって分かるものなんだ。あゝそうか、そうだったのか、ここまで生きていてほんとに良かったと思える日がきっと来る。その日まで気を落とさずやって行こう。峠の向こうの景色が見えるまで。

今日はトワンの石の上にぞうけいの子供らが、南天の実で作ったリースをのせてくれた。「メリークリスマス!」という祝福の言葉を添えて。そういう素晴らしいシーンは予期せぬ時に突然に訪れる。

アトリエの外に出たら影がくっきり地面に付いていた。見上げたら真上に大きな満月。冬至から1日過ぎた希望の日だ。(K)


2018年12月23日日曜日

話の輪郭

言外にこそ意味があるというような言葉は使いたくない。全体の意味のはっきりした謂ば輪郭が明瞭な話し方を目指したいと思う。
それは絵の場合なら明確な輪郭線にあるだろう。明快な色彩の使われ方にあるだろう。
しかし芸術が既に解決済みな問題を論理的に証明するだけのものならその存在理由もなくなるだろう。むしろ不明確で曖昧なものが何かを決定的に示さねば芸術ではないのだ。ザッツ曖昧。これこそ芸術の不可思議な面白さでもあるのだ。
『Mの家族』の左側を黄色に塗り替えた。なぜ空色に塗ってあったのか理由を曖昧にしか覚えていない。(画)

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