2018年10月6日土曜日

額装

デナリに持って行く絵の額装を始めた。古いのを使ってみたら色が合わない。額の色を塗り替えることにした。一旦別の色を塗ってみたが塗装の肌合いが気に入らないので水ペーパーで古い塗料を研ぎ始めた。するとさらに欲が出て来て表面の肌理とか形を調整することにした。色も青の深い色がいいな。

他人にそれほど絵を見せたいとも見せたくないとも思わなくなった自分なのに、額の形とか色の塗り替えなど絵を飾ることは大好きだ。矛盾しているように思える。

岡山で展覧会をした時に初めて作品が自分の子供のように思えた。あれと関係あるに違いない。(画)


2018年10月5日金曜日

生きているものの線

トワンが復活した!今日は庭に侵入した猿を追いかけて走り回っている姿を見ることもできた。その喜びを噛み締めながら、今夜はいつもより遅くまで仕事に集中した。生きているものの線は強く、弱っているものの姿は霞んで見える。『生きているもの』というのは愛で繋がっているものの実在のことなのだ。実体のないものに怯えて煩っているうちにだんだん生命力が吸い取られ半ば死んでしまう。そんなことになってはつまらない。トワンの線も、あたたかく、強く、くっきり浮き上がらせよう。

山を彫り直して渦巻きも強くした。ケルビムのブンブン回る目が全てを見ている。(K)


2018年10月4日木曜日

とおめいな意識


あの日突然わが家に現れた天使がまた元いた所へ戻って行ってしまうらしい。
寂しさをこらえて銅版に向かっていたら、脳裏に彼の姿が見えその背後に大きな広い空間が広がった。とおめいな意識がまたやって来たのだ。精霊の住む空間。
その意識が僕に絵を描かせてきたのだと改めて感じた。だから彼の生をずっと見守っていかなければいけない。
一人の画家が死んだという知らせが今日届いた。生前未発表の銅版画が載っていた。思わずそこに精霊を探した。(画)

2018年10月3日水曜日

天使がいるうちに進みなさい

トワンはいつまでも一緒にいてくれる訳ではないらしい。覚悟はしていても淋しいものだ。今日はトワンにシリンジを使って食べさせた。急に食欲が落ちたからだ。散歩はするし、鼻も濡れているし、目も涼しいのだけれど、元気がない。自分は高齢犬になったという自覚があるのかしら?

石を彫る手を休めて畑に入ってルバーブを摘んでいたら、ポケットの中でブブッブブッと携帯が震えた。ガハクからだった。しばし話をした。あとで聞けば、畑の中の透明な意識が伝達されたらしい。 (K)


2018年10月2日火曜日

25時

深夜の時間の方が集中感が出るのはどうしてだろう。多くの人々が眠りにつき意識が寝静まると、森や川に棲む精霊たちが動き始めるのだ。
「死んだ人たちとこれから生まれる人たちの中に私はいる」と言ったのはクレーだった。
自転車で毎夕周辺の山を走り回っていた理由が今分かった気がする。精霊たちに会いに行っていたのだ。毎日会わずにはいられなかったのだ。
版にインクを詰める。銅板にできた溝の中にインクが滑り落ち、黒い海になる。その黒い海から作品が生まれる。
作品は人為的に作られるのに人為を嫌うのは精霊たちが棲めなくなるからに違いない。(画)

2018年10月1日月曜日

形が見えた時

今までで一番いい顔が彫れた。顔というのはその時の理解の限界を示しているから、今が一番いい状態なんだろう。右と左のバランス、知性と感情の引き合いが光の下でどういう影を作るかじっと観察していると、だんだん歪みがとれて美しい線が引けるようになる。やっと辿り着いた形に屋根の上から歓声が上がった。 台風の雨がトタン屋根を叩く音がザーッ ザーッと波状攻撃を仕掛けて来る。面白い音を聞きながら彫ったせいか、今夜は形がよく見えた。(K)


2018年9月30日日曜日

いつですか?ホンバン

絵ってのは練習があって本番がある、ってものじゃないんだ。日々が練習だしそれがそのまま本番なんだ。
昔ある絵描きが発注した絵を中々描いて来ないので、注文主の殿様が仕事場を尋ねたらその場でスルスルと描いて見せたそうな。それなら何故今まで描かなかったと怒ったら、絵描きは襖を開けて隣の部屋を見せたそうな。そこには書き損じの鶴の絵が山積みになってたって話。要するに一枚の絵を仕上げる為にはたくさんの失敗の練習が必要だって。
そうかなあ?芸術ってのは紙に筆を下ろす前から始まってるんだと思わない?それがひと時も休まず続くのでなけりゃいけないものじゃないの?プロがダメって思うのは、末端だけの評価に終始してそれは結局オリンピック選手の競走と同じ世界に入ってしまうから、オレそういう世界が大嫌いだから。
と偉そうなことを言ってもどの道最後は作品が物を言うしかないんだけどね。(画)

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