2019年5月11日土曜日

いつまでも出来ること

トワンのところを彫り直していると終わりがない。やればやるほど良くなるからだ。思い出すというより思い付く感じで形が新しく生まれるようなのだ。今夜は鼻先から口元までの形の発見があったのは嬉しかった。そして最後はやっぱり目のところを彫った。愛しいものはずっと成長し続けていく。スーッとしたメントールとエーテルの香り高い完璧な形へ向かって。(K)


2019年5月10日金曜日

自慢したい絵

描き始めの頃から比べるとずいぶん赤の色味が変わった。この赤は今でも暗いが始めはもっと暗かった。とは言っても記憶の遥か彼方ではある。うんと以前のことだから。
絵に対する考え方も変わった。この絵に関してだけでなく、色の感じ方も形の捉え方も空間の描写の仕方も全部変わった。自分ではそれを成長だと思いたい。
前よりいい赤になっていると思うがこれよりずっといい理想的な色の絵が浮かぶ。それが現実に画布の上に現れたらその時はちょっとぐらい自慢してもいいだろう。その時は来るのだろうか。 (画)


2019年5月9日木曜日

サンダルの足

バードは古代人だ。サンダルがよく似合う。トワンの足と並べると尚美しい。犬の足と人の足、どっちも綺麗でしなやかだ。

戦時中この辺りの子供らは、草履を古タイヤで作っていたのだそうな。物が無い時代の知恵と工夫は聞いていて楽しい。どんなタイヤを使ったのかと訊ねると、
「自転車でもオートバイでも何でも使えるよ」と言う。でも丸みがあるから難しかったでしょうと言うと、
「そんなことは気にしねえ。ただ足が黒くなったけどよっ」と返って来た。鼻緒が切れたら、古手ぬぐいを裂いて捻って自分ですげ替えていたそうだ。

山の斜面に大きな白い花が揺れている。朴の花だ。
「昔この辺りじゃ、朴が咲き始めたら陸稲を蒔いてただよ」と話すキゾウさんの姿を久しぶりに思い出した。(K)


2019年5月8日水曜日

過剰投入

突き当たった感じがして少し困った。リアルな質感がもっと出せないものか。色の問題、形の問題、絞りきれずに迷っている。とにかく描くものは少しでいいという考えを捨てねば。適確に描かねばならないという思い込みを捨て、過剰投入でいいんだ。とにかく描いていく。(画)



2019年5月7日火曜日

見つめる人

まっすぐ見つめるこの人は、力を持たず力を使わず美にだけ関わりがある小さなものたちの仲間だ。バードと名付けよう。

小鳥が毎朝病室の窓から入って来て手にとまったというタルコフスキー、あの写真は鏡を使って撮ったんだろうな。呼べば素直にやって来たトワンのように通い合う意識というものは最後は視線となって完成する。(K)


2019年5月6日月曜日

トワンの眼

ずっと前のことでどういう理由でかは忘れたが、ある友人がタルコフスキーの撮ったポラロイド写真集を贈って来た。その時はなぜタルコフスキー?と唐突感があったのだけれど、載っていた写真には魅入られた。しかし当時はそのどこに惹きつけられたのか分からず終いだった。それが今少し明瞭な形で見えて来たように感じる。しかもそれはさらに(驚いたことに)ルドンやデューラーの精神性にさえ通じそうな何ものかなのだ。
死から見たこちら側、死者からの視線、永遠と呼べるような何か…「トワンの眼」だ。(画)


2019年5月5日日曜日

花の後ろにいる人

花の後ろに張り付くように立っている白い人を彫っていたら、雨が激しく降り始めた。外に出てしばらく山の斜面にかかる雨の棒のスクリーンを眺めていた。どんどん気温が下がっていく。雷も鳴り出した。その声を解読しようと耳を澄ましながら彫っていたら、突然ドカーンと耳を擘く雷鳴、すぐ近くに落ちたようだ。

花のシルエットを壊さぬように、白い人が花と一つになるように彫っている。帰る頃には雨はすっかり上がって星空になった。気温10度。今夜は辺りの山に霊気が漂っている。自転車でケイデンスを上げて体を温めながら走った。(K)


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