2019年7月9日火曜日

意味の記憶、感覚の意図

マイブームの居合をYouTubeで片っ端から見ていると、忘れていた型を思い出し始めた。見ているだけでなく試技として繰り返しやってみているとさらに思い出して来た。
それで気づいたことは思い出し方だ。体にしっかり身につき忘れ得ないと思っていた型(形)は思い出せず、むしろ当時からどうしてこうなのかとよく分からず形だけ真似していた型を、そのしっくり来なかった気持ちと共に思い出す事の方が多いという事実だ。
居合の型(所作)動作というものには全て意味があり、それを知らず決まった形を繋げただけでは居合ではないから意味意図というものに常に立ち返らねばならない。そこで意味不明に思えた型の印象の方が不可解さとして強く記憶に残っていたのだろうか。
はっきりした意図なく描き始め感覚的に仕事を続けようとしても無理なのだ。偶然に置かれた色、形だとしてもすぐに僕らは意味を考えてしまう。そして次のタッチを始めるにはどうしても意味なり意図が必要で行く先をその線状に置くのだ。
それが僕らの限界を表しているだけなのかもしれない。(画)


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