ガハクに面会している最中に(すらりとした若い女医さん)担当医がやって来て、「肺がとても綺麗になりました。今、一般病棟に移れるように手配しています。(危機を脱したから)肺の専門のところの方が良いでしょう」と言われて、嬉しくて何度もお辞儀をした。なんとお礼を言ったものか分からずいろいろ言うのだけど、うまく喋れなくて、結局口から出て来た言葉は「ほんとうに有難く思っております」だと。使ったこともない皇室みたいな言い回しだなあと内心思いながらも、仕方がない。『その時何を言おうかと考えて用意しておく必要はない。言うべき言葉はその時与えられる』と聖書に書かれてあったっけ。すっかり諦めてまたお辞儀をした。
ぼんやりウンザリぐったりしているガハクを促して、何か書きなさいよと、鉛筆と白いメモ用紙をクリップで留めたものを渡した。自分の生年月日を書き始めた。続けて入院した日を書いて、「僕はどうしてこうなったの?」と聞いて来た。どうも救急車で運ばれたことも、その後の数日のことも何も覚えていないようなのだ。肺がすっかり萎んで息ができずに頭が混沌としていたのだろう。この12日間の出来事をメモし終わって、「よく助かったねえ」と言う。そうなのよ、もうこれは奇跡なのよと答えた。
手を握ると普通に握り返して来て、ひ弱さはない。ただまだ食べたり飲んだり出来ないし、脚に力が入らないからフラフラするようだ。ベッドの上では体勢を自分で変えることが出来るようになった。もう少しだ。毎日確実に回復している。気力もあるが、ガハク流だ。もうICUの異常空間に嫌気が差して来ている。そこは死にそうな人たちばかりが集められている部屋で、幻想に向かって喋り続ける人やら、心肺蘇生しているスタッフの慌ただしい動きに深夜眠れなかったりもする。
ガハクは生き返ってだんだん意識が現世に戻って来たけれど、向こうに引っ張られて死にそうな人たちの姿は重く暗く意識に堪えるのだろう。実際にベッドから上半身を起こしている人はガハクの他には誰もいない。そういうだだっ広い部屋なのだ。
室内ばきをベッド脇の床に置いて来た。まだ下着やタオルや石鹸は要らないと返された。病院のパジャマとおむつで過ごしている。元気になって行く苦痛というのがあることに気が付いた。生きることは辛いのだ。だから怠かったりぼんやりしたりするのだ。そういうことが分かったから、今日は愛おしい気持ちになった。髭を剃ってやって、あとはずっと右肩を揉んでいた。なんで右肩だけが凝るのだろう?
飛翔する天使の尾羽も彫り直している。(K)
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