2021年10月30日土曜日

風下の岸の者たち

 安逸な生活を拒否して飛び立つふたりに、祝福あれ!無言の応援も沈黙の呪詛も、もうふたりには届かない。

生き生きとしていたのがいつだったかもう思い出そうにもその記憶さえも曖昧になった者たちが吐き出す言葉には、毒がある。真っ赤に燃える世間。赤と黒。火と炭の色だ。尊厳を保つために傾聴している風を装う者らに真実があるはずがない。

メルヴィルが言いたかったこと、書きたかったこと、伝えたかったことを『白鯨』の中の人物たちが生き生きと現している。意識の革命を起こそうと、呼びかけてくる。風下の岸の者たちよ、さらばじゃ!

ガハクの画室の真ん中に立つと、4枚の描きかけの絵に囲まれて、気持ちが昂ってくる。窓の外は紅葉が始まった山の色。空は秋の薄青だ。今日もパンが焼けたら、自転車で山に出かけるのだろう。(K)



2021年10月26日火曜日

ウシコロシという木

 石頭(セットウと読む。石を彫る時のハンマーのことだ)の柄に使う木の『ウシコロシ』この庭に植えたのは、たぶん17年前だ。岩手から取り寄せた苗木2本のうち、一本だけ無事に育って、やっと使える太さにまでなった。根元が5センチほどある。2階の屋根に届くほど背が高い。

石を彫る衝撃を和らげるしなやかさと強靭さがある木が、ウシコロシ。怖い名を持つこの木、屠殺に使われたのだろうか?と思っていたら、ガハクが「いや、それは鼻輪のことだよ」と教えてくれた。

木は秋から冬にかけて伐採し乾かしておくと丈夫で長持ちするそうだ。脚立に乗ってちょうど良い太さのところに鋸を当てた。2〜3本取れる長さの1mでカットした。切ってみると、石彫の道具屋に売っているウシコロシとはちょっと違う。店のはもっと赤い木肌と皮をしていたが、うちのこの木は白っぽくて優しい木肌だ。使ってみよう。

ウシコロシ、別名カマツカ。(K)



2021年10月21日木曜日

トワンの目

 トワンは、黒いアイラインがくっきり引かれて、魅力的な目をしていた。眉もスーッと目を引き立てていた。そういう美しさは写真には記録されない。心の奥にあたたかい気持ちが湧き上がった時にだけ現れる。それは生きている姿だ。だからトワンが死ななきゃ、こういう風には彫れなかった。

ガハクが死にそうになったことが何度かあった。その時の怯えを思い出す。オロオロとしたし、元気になってもまたこんなことがあったらどうしようと、独りになる不安から抜け出すのは容易じゃなかったが、今回は違っていた。どっちを選ぶのか、その決断が苦しかった。「(たとえ僕が死んでも)余計なことはしなくてもいいからね」と、ずっと言われていたからね。

「あの時、僕の死を受け容れてくれたから、僕は死ななかったんだよ」とガハクが言う。後先が逆のようだけど、そうなんだ。そういうものなのだ。

今夜もトワンとその彼女を彫った。アイラインはヤスリを上手に使えば綺麗な面が削れることが分かった。いつまでも成長し続けている。腕は上がり続けているようだ。(K)



2021年10月14日木曜日

フォークリフトの掃除

 週に一回フォークリフトを動かしてバッテリーも充電しているのだが、今日はその後続けて内部の掃除を始めた。やり始めたら、なかなか終わらない。油汚れや、こびり付いた埃、シャーシに堆積した泥をこそぎ落とし、あちこち拭いて回っていたら、雑巾が真っ黒になった。グレーだと思っていた機械部品が青だったり、黄色のパイプだったり、黒く塗装されていたり、、、。

外側は30年前にレモンイエローのペンキで塗り替えたんだけど、内側は35年間一度も掃除したことはなかったんだ。たまにコンプレッサーのエアでシューッと埃を吹き飛ばしていただけだった。

一つ一つの部品が複雑に組み上がっているのを眺めながら、仕事というものの本来の姿を考えていた。すべてがお金に換算されてしまうけれど、労働の中身をもっと直に体感的に感じとりながら動いて行かなけれぼ大事なものを見失う。

ガハクが車検の終わった車を受け取って帰って来た。整備士のお兄さんが部品交換した所を一々説明してくれたそうだ。うちの車はもうクラシックカーらしい。キャブレーターの付いている車なんてもうみんな乗ってないのね、知らなかった。(K)



2021年10月11日月曜日

花に火を灯す

 3時のおやつにしようと二階に声をかけたが、すぐには降りて来なかった。

家で石を彫るようになって半年経った。なにをするのも一緒だ。学生の時以来で、このペースは本当に楽しい。もっと互いの存在が鬱陶しいものかと思っていたけれど、そうじゃなかった。外に心が向いていないせいだろう。展覧会をしなくちゃとか、売らなくちゃとか、他人と繋がっていなくちゃとか、なくちゃならないものが消えて行くとやっと現れたのが目の前の人、目の前の風景だった。話したいことを思いついたらすぐに口に出すと、聞いてもらえる。

やっと降りて来たガハクの顔に、バーミリオンの絵の具がくっ付いていた。どこを塗っていたのか分からないけど、派手な色の頬紅だ。ティッシュで拭ってあげたけど、油絵具だからなかなか取れない。ほっぺの中に煎餅をくわえたままの舌でぐっと内側から押して協力してくれたので、やっときれいに拭い取れた。

白い花の真ん中にバーミリオンが塗ってあるこの木、命が与えられたようじゃないか!この世に芸術がなくなってしまったら、ただの生殖と生存だけが続く。そんな独裁者のいる家も国も組織も死んだような場所だ。だから遠ざかることこそが本当の闘いなんだ。(K)



2021年10月7日木曜日

太陽の裏側

 5時になると手元が暗くなる。久しぶりに投光器を取り出して来て、高いところから照らしながら彫った。夜の野外でカチンカチンと甲高いノミ音を響かせていると、時を忘れる。若い頃にやれたことが、ずっとやれなかった。なのに、今この庭ではやれている。

アトリエをこの庭に移してから最初に彫るのは、この壊された石の彫刻を作り直すことだと決めていた。これをしっかり彫ることができれば、過去をすっかり捨てて歩み出せる。

石の粉を洗い流すためにジョウロで水をかけたら、石の中に山の模様が浮き上がった。「こんな風に磨けないかなあ」とガハクが言う。彫った形を横切って黒い模様を磨き上げるなんて、ちょっと私には思い浮かばない発想だ。やっぱりガハクは絵描きなんだな。(K)



2021年10月6日水曜日

トワンの声が聞こえる

 昼間、ケイトウの花のスケッチを探していたら、トワンがガハクにぴったり張り付いている素描を見つけた。横に犬のセリフも書いてある。

「ボクがパパを好きなのは、パパがボクを好きだからじゃないんだよ。ボクはパパが好きなんだよ」たしかにトワンの言いそうなことだ。

ガハクがやっと腰の痛みが癒えて、ふた月ぶりにお風呂に入って出て来たところを 待ち構えていたトワンが、最大級の敬意と称賛の眼差しで迎えていた場面だ。それからは毎回風呂場の出口で待つようになった。きれいに洗われた体から発散する匂いをくんくん嗅いで喜んでいる。

洗礼とか、禊とか、滝に打たれるとか、身を清める宗教的行為が実体あるもののように見せられた。病気からの回復は身も心もきれいになることだ。

ガハクが9割の致死率から生き延びてこの家に戻って来た時の痩せ細って削ぎ落とされて骨だけのようになった体。そこから出される声の大きかったことを思い出す。ホールに響き渡るようなクリアーな音声。その時天井が高く感じたのは、ふたりとも同じだ。空間は変化する。それは地獄にもなるし、天国にもなる。

山で視線を感じて振り向くと、梢の間に小鳥の目があるそうな。山で鹿に会うと「トワン!」と呼びかけるガハクの最近の絵には実感がある。女が服を脱ぎ始めたのは、春の陽気と集中のせいだろう。(K)



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