2018年12月31日月曜日

絵のルール

使っている緑色を少し変化させた。さらに赤みがかった青の領域をわずかに増やしている。色数はこんなもので充分だと思う。多色を自由に扱えるようになりたいという願望はあれども未だ実現できていない。
絵にはその見方に暗黙のルールがある。
例えば遠近法ーーー上に描いたものは下に描いてあるものより遠い、大きく描いてあれば小さく描かれたものより近い。
例えば明暗法ーーー明るい色は光、暗い色は陰、それでものが膨らんで見える。それはそう見えるというより見方のルールなのだ。
このルールは時代とか文化により決まっているのだ。だから時代や地域、文化により変化する。
色にもルールがあり、同じ色であれば同じもの、違う色であれば違うものとして先ずは見ようとする。いやそうでもないぞと思うのはその人の知識、経験度による。
画家はそういう認識の仕方(ルール)を利用したり対決したり妥協したり時には無視したりしながら絵を描く。(画)

2018年12月30日日曜日

永遠の入り口

そこを彫り直しても大して変わらないように思える目立たない場所、慎重にやらないと大事な形が吹っ飛んじゃうような繊細な場所がある。「神は細部に宿る」という言葉を思い出しながら今夜はずっと気にしていたところを彫った。

寒さで朝から頭の奥がしんしんと痛かったけれど、やり終わった頃にはすーっと軽くなっていた。気が付いて良かった。放っておかずに良かった。そのまま死んじゃうようなことがなくて良かった。

足の裏に天使の仕事があるそうだ。全体重を支えて地面に触れ、跳躍の瞬間地上を離れる一点。ここが彫れればこの人は本当に美しくなる。(K)


2018年12月29日土曜日

水先案内人

樹の厚みを出す方がいいか迷っている。樹の膨らみというのは樹の立体感そのものを生み出しているわけだから自然な感じを演出するには必要だけれども。しかし今それは必要だろうか。
今、頭にあるのはギリシャの壺絵のような単純な線と色面の抽象的な美しさ、あれに及ばずとも近い何かにしたい。
自然さより不自然さ=違和感こそが必要だ。そしてそれが精神的な奥行きへの水先案内人であって欲しい。
手段は明確な線と美しい色彩だろう。(画)


2018年12月28日金曜日

失われたもう一人の自分

溶け合うようにくっ付いていたピアノとピアニストの間の空間を広げた。

思い出すのは、ブランクーシの接吻という男女が抱き合っている姿をシンボリックに彫った石像と、音楽を奏でることは情事であると言ったグレングールドの言葉。

プラトンのいう高次元の愛のイメージとは、もう一つの失われた自分と合一することを目指しているのだそうな。やっぱりそうか、そうであるなら嬉しい。

終わることのない競争と殺戮と支配欲の世界のどこに美があるだろう?完全なものになりたいという夢を持ち続けている。そこからしか生きる意欲は湧いてこない。  (K)


2018年12月27日木曜日

永遠性と時間

神は宇宙の永遠性を人に気づかせる為に時間というものを創出した。と書いてあった。
音楽は時間がなければ成り立たないのに音楽を聴いている時は時間の推移に気づかないでしょと。また永遠を感じさせるものは芸術にしかなくそれを感じさせない芸術に一級品はないとも。
ギリシャの神々の中でゼウスに一番近い偉大さを持つのはエロス神で、ゆえにエロスこそ神そのものなのだと。そして宇宙を作り出したのは神なのだから、永遠なるものこそ「美=エロス=愛」だと。

アトリエで絵の合間にストーブの前に座ってそんな風にシモーヌヴェーユを読んでいる。(画)


2018年12月26日水曜日

月の音が聞こえる

石を彫りながら色を感じることはあるけど、音まで聞こえて来たのは初めてだ。このところ 冬の満月に照らされて自転車で走っているせいかな?

「椅子が少し窮屈じゃない?」とガハクに言われて、椅子の脚と背当ての位置を慎重にずらして彫り直した。そうしたら、ピアニストがゆったりと楽しそうに弾き始めた。森がぐっと近くに寄って来た、もっと彼の歌を聴きたくて。死んだ人たちが蘇る満月の夜の森。(K)


2018年12月25日火曜日

トワンをまた描いてます

「絵で死ぬ」
①自分よりも大きな才能に出会って筆を折るという話を時々聞く。間違いだ。至高の芸術は人をその道に優しく励まして誘うものだ。絵描きなら自分でもあゝいう絵を描きたいと思わせるものだ。
②最高の絵が描けた時これならもう死んでも良いと思えるか?間違いだ。絵描きならこんな感じでもっとたくさん描きたいと思うに違いない。
同じ主題の繰り返しだったりするのも一つにはこの絵では不十分だからだし、もう一つはこれならもっと描けるはずだとも思うからだ。
それが愛するものを描いているなら尚のこと。(画)


2018年12月24日月曜日

森に響き渡る声

ピアニストの輪郭を深くしたら生き生きとして来た。少し笑っているようにも見える。歌が森に広がって鹿がスッと動き出した。

何が何のためにあるのかはずっと後になって分かるものなんだ。あゝそうか、そうだったのか、ここまで生きていてほんとに良かったと思える日がきっと来る。その日まで気を落とさずやって行こう。峠の向こうの景色が見えるまで。

今日はトワンの石の上にぞうけいの子供らが、南天の実で作ったリースをのせてくれた。「メリークリスマス!」という祝福の言葉を添えて。そういう素晴らしいシーンは予期せぬ時に突然に訪れる。

アトリエの外に出たら影がくっきり地面に付いていた。見上げたら真上に大きな満月。冬至から1日過ぎた希望の日だ。(K)


2018年12月23日日曜日

話の輪郭

言外にこそ意味があるというような言葉は使いたくない。全体の意味のはっきりした謂ば輪郭が明瞭な話し方を目指したいと思う。
それは絵の場合なら明確な輪郭線にあるだろう。明快な色彩の使われ方にあるだろう。
しかし芸術が既に解決済みな問題を論理的に証明するだけのものならその存在理由もなくなるだろう。むしろ不明確で曖昧なものが何かを決定的に示さねば芸術ではないのだ。ザッツ曖昧。これこそ芸術の不可思議な面白さでもあるのだ。
『Mの家族』の左側を黄色に塗り替えた。なぜ空色に塗ってあったのか理由を曖昧にしか覚えていない。(画)

2018年12月22日土曜日

音楽の空間

音楽が作る雰囲気は分かっていたけれど、その空間を知ったのは最近のことだ。広がりや奥行きだけじゃなく、風景が立ち上がったりグレーに沈んだりする。良いものを生み出す手助けをしてくれる音楽ならジャンルを問わず好きになれる。

マルキーズ・スコットが素晴らしいのは音楽の空間を緻密に捉えて動かして見せてくれるからだ。彼はいつも踊りながら歌詞を口ずさんでいる。どんな言語の歌でもそうだ。完璧に理解して何度も頭の中で構成して楽しんでいるに違いない。音楽の中で遊べる人たちがいる。そういう人たちは芸術が何のためにあるかなんて考えなくてもその中で生きている。それが超自然のパンだ。

ピアニストの周りの空間を深くしたくなった。鍵盤を叩く手元に光がたまるようにと。(K)


2018年12月21日金曜日

複雑と単純

複雑に見える絵と単純な絵、どっちがいいんだろうと考えて来た。若い頃は色んな要素がたくさん詰め込まれていた方が高度でもあり深遠な気がして複雑なものを描きたいと思っていた。現代的な絵を知るにつけ技法の単純さが表現の力強さを生んでいると思えて単純な表現を目指した。
気づくと最近はそういう事を全然考えていない。複雑でも単純でも、いや例え複雑過ぎても単純過ぎてもその時のイメージや表現したいものが選ぶ世界に誰も文句つけられないよ。

黄色と青だけで終わりそうなこの絵を単純というか複雑というか。。)
光と陰のどちらにも使えそうな「青」。この色を何とか使いこなせないかな、と思っている。(画)

2018年12月20日木曜日

卵の輪郭

トワンが死んで49日経った。今朝のガハクの霊視によれば、向こうではトワンは菩薩さんと散歩しているらしい。天の野はどこまでも明るく広く暖かく長閑だろう。時々ガハクが山で呼んでいる声が響いてもいるだろう。

山散歩するついでに私のアトリエの薪ストーブに焼べるための小枝や倒木を紐で結んでは引きずって降りて来るガハク、「さあ帰るよ!」と辺りに呼びかけると、にっこり笑えて来るのだそうだ。

今夜は彼を包む気体をあたたかく柔らかくする為にひたすら彫り続けた。やっと卵の輪郭がふわっとなった。森を包み込む風の流れが形になった。(K)


2018年12月19日水曜日

影を描く

小学校の国語?の教科書に口絵として載っていたキリコの「街の神秘と憂愁」その題まで覚えた。心の奥に潜むある種の不安や外界の持つ気味の悪さが子供心にも分かった。あの絵を特徴付けているのは「影」だと思う。
ところがいざ絵の勉強を始めると、まず戸惑ったのは絵では「影」を描くべきでないという事だった。古代から近代までの絵画にはほとんど「影」がないのだ。確かにモデリングの為の陰影はあるが事物が落とす「影」は描かれていない。
しかし現実にものを見ると「光」あれば必ず「影」がある。これをどうしたらいいのか…。ずっと気になっていたことの一つだった。キリコのように「影」だって使えるはずだ。(画)


2018年12月18日火曜日

ケルビムの風の吹く方向

渦が巻き上げる風の方向を球体の内側に向けたら、今までどうやっても不安定でグラグラしていた膝や足首の位置がピタッと決まった。うねりながら落ちてくる飴色の激流の方向も定まった。これでいい。空間を自由に流れる川。宙空に渦巻くケルビムの輪に乗って移動する人たち。こういう世界が向こう側には確かにあるという確信が今はあって、そこから意欲や活力をもらっている。(K)


2018年12月17日月曜日

イメージの新しさ

絵具や筆の下から何が現れて来るか、それを見ようとする為の行為を「描く」という。そ例外の目的や意味は全て付随的なものでしかない。(純粋に)「描く」為には付随的な動機や目的は可能な限り捨て去られねばならない。
だから上手く描けないと感じる時は見えているものが上手く描けないのではない。
上手く描けたと感じるのは見ているものが上手く捉えられたという達成感にあるのではない。
イメージの確認ではなく、イメージの新しさを発見した時、画家は上手く描けたと思うのだ。常に新しいイメージがそこに出ていなければ「描く」ではない。(画)


2018年12月16日日曜日

欲望の方向

空から注ぐ蜜のようなベタベタした液体が鹿を発情させた。当て所もなく歩き始める。音楽が聞こえる。甘く優しく滑らかな音のつながり。耳が察知するのは自己防衛のためだけじゃない。美味しいもの、魅力的なものへと情愛の赴くままに動物的なものは行動する。それで良いとか悪いとか簡単には言えないな。罠にかからないように願うばかりだ。

森の中で迷ったときに知性というものが役に立つ。直感を支えるからだ。でも情愛が無くなったらもうだめだ。どこまでも歩いて行けるのは大事なものをずっと愛し続けているからなんだ。(K)


2018年12月15日土曜日

愛の行方

あれだけみんなでトワンに注いでいた愛はあの子が死んでしまった今、どこへ行っちゃったんだろう
土の下にトワンと一緒に埋めてしまったとは思えないし
行き場がなくてその辺に溜まっているとも思えない
空気の中に広がってしまったのかなぁ
いやきっとどこかにあるのよね、でもどこに?
と聞かれた。
僕らはトワンの中に愛があるのを見つけた。だから見るということは愛を探すということだと初めて分かった。だから今こそトワンへの愛は僕らが作る絵や彫刻の中に定着されるに違いないのだ。(画)

2018年12月14日金曜日

真空を埋めずに月を見上げる

森の闇に吸い込まれる鹿と、月の光を浴びている男。このふたりはすぐ傍にいながら異空間に立っている。今夜やっとそういう感じが出て来てホッとしている。

何度もさらって彫り直している背後の空間。平ノミの当て方ひとつでパッと輝く森。一気に進むこともあればじりじりとしか進まないこともある。良いものが出来て来ると何があっても楽しい。

水を汲みに外に出たら雲間から六日の月が出て来た。淋しいけれどこの真空に持ち堪えることが自由への道なんだ。(K)



2018年12月13日木曜日

小鳥たち

山に入ると鳥の声が近くに聞こえる。ギャーギャーとうるさいのはヒヨドリだ。人を警戒して鳴いているようだ。シジュウカラのような鳥は群で行動する。鳴き声が遠く近く、あちこちから聞こえ取り囲まれていると感じる時がある。今日は小さな影のようなミソサザイの姿を見た。
タルコフスキーが最期の時を過したパリの病室に毎朝訪れたという小鳥、それは彼に天界の光を伝えに来たという記述を読んだ。そうだ、確かに小鳥たちは天界に属している。
自然の中にいると事物は全てそこに在ると同時に別の次元の世界とも繋がっていると感じられる。むしろそうでなければ存在そのものがあり得ないと思えるようになった。(画)


2018年12月12日水曜日

風と光と水の交錯

トワンを包む卵の気流が膨らんでやっと森と繋がった。とおめいな丸い球の構造がだいぶ分かって来たので、思い切って彫っている。風が球の後ろに回り込むように、海の底まで光が射し込むようにと。

あと、光に包まれた温かく柔らかな霧雨の空間も作りたい。今夜はピアニストのいる空間の奥行きも見えて来たから、パステルの色で陰影を描いておいた。

常に発見がなければやって行けない、生きていけない。これは冒険なんだ。(K)


2018年12月11日火曜日

発達する森

森は大きくなる。
35年前、飼い猫を連れて引っ越してきた時、街に住んでいた頃よりずっと逞しくなった猫が獲物を獲りに行くその森は今よりずっと小さかった。その猫が死に森に埋めた。この地で飼った犬が死んだ時もその同じ森に埋めたのだった。
今毎日森に散歩と称して登っていき、枯れ木を集めながら一緒に行動していたトワンの姿をどこかに見ている。森はずいぶん大きくなった。木が育っただけでなく、トワンが死んだおかげでさらに大きくなった気がする。(画)


2018年12月10日月曜日

トワンの森

森の中の道を彫り直した。鳥の真下に広がる樹海は、踏み台に乗って少し高い位置から彫っている。

ここはトワンと一緒に歩き回った森だからどこもかしこもよく知っている。小さな沢を辿って水が浸み出している所まで行ったこともある。彫っていると懐かしい風景が蘇って来て淋しいやら楽しいやら。トワンが死んだからこそ見えて来た世界をもっとはっきりと刻んで行こう。(K)


2018年12月9日日曜日

何度も撮り直す

タルコフスキーは自作を何度も撮り直していると聞いた。それは最初のプリントが興行権を得なかったので、どうせ発表できないのならこの際気に入らない所を撮り直そうと、要するに修正の為の時間ができたのだそうだ。
売れなかったことが作品を推敲する時間を与え、結果的にあの一連の秀逸な作品群を生んだということになる。
なんだか我々と被る話のような。。

『ガジュマルの樹』女の子に着物を着せた。描き始めた頃の姿に近くなった。(画)



2018年12月7日金曜日

雨の実感

雲の下の暗がりがポイントだと分かったで急いでガンガン削っていたら、その下方にある雲から温かく柔らかな雨を降らせたくなった。春先の芽吹きを即すあの優しい雨が恋しくなった。

トワンのせいだ。トワンが死んでからいろんなものが見えるようになった。自然の中にではなく、彫刻の中に。ブレイクが「自然は私を疎外する」と言った意味をひしひしと感じている。

生きて行くのに必要なのは超自然のパンだ、それは美という天から降り注ぐ雨だ。今夜は川を彫っていると、そこを遡っているトワンが見えるように思えてジーンとした。こういうことだったのか、死は卵だというのは。(K)


トワンの青

青い色。フタロシアンブルーにコバルトブルーやウルトラマリンを混ぜ、青の変化を作る。最後にチタン白を加える。白を入れると青の色味がすごく引き立つ。絵を習いたての頃、教師から白色はあまりたくさん使うな、色がなくなってしまうからと注意されたのと逆に、多くの色にその傾向がある。
今では強い色を使いたい。鮮やかな、時に派手すぎる色に思いを乗せたいという気持ち。トワンを思うとこれくらいがちょうどいいのだ。(画)

2018年12月5日水曜日

卵型の渦

卵型の渦をどんどん大きくしている。川を削り、雨も削った。遠景は遠景らしくずっと後方へ退いてもらった。トワンの卵がまわりを配置し直して行く。無理やりこさえたところや理屈っぽい形がだんだん取れて、自然に見えて来たのが嬉しい。こういうやさしいスフィアはトワンが残したものだ。今も降り注いでいるものだ。12月にしては暖かかった今日、少し淋しさの殻から脱した。(K)


実際にそれがそうだからという理由だけで絵の中の色や形が決定するのではない。構図や表現の便宜で決まるならばそれも虚しい。心を空にして事物事象に向かい合えれば魂の反応としてそこへ帰着する、それを良しとすべきだろう。対象の存在とも無関係に。
鎮魂であるならば花は自然にそういう形そういう色で描かれねばならないと思えるが、正しくは出来上がったそういう形色を見て絵の目的を知るのだろう。(画)


2018年12月4日火曜日

二重の存在

水中と水面の境をぼかすことを思い付いて彫り直したら、なかなかいい感じになった。そこはかとない月の光だ。夜空に浮かぶ月との対比が美しい。

今夜は水の中の月を彫りながら、二重の存在について考えていた。霊的な光を放つ月はすぐ傍まで降りて来てやさしく語りかける。

ケルビムの輪に乗って軽やかに立つ男の足先がやっと良い形になった。(K)


2018年12月3日月曜日

ルカ

トワンと散歩していた山道を一人で登り、薪ストーブで使う小枝を集めて回るのが日課になった。道を外れて山の斜面を登るとそこかしこに切られた杉の下枝が落ちている。下の道に向かって順々に落としていき後で集めれば短時間で効率よく薪が集まると分かった。
わずかに残って見える獣道を伝って斜面を登って行くと、若い頃のトワンの走り回る元気な姿が浮かんでくる。
彼の目線で見る風景は霊性を帯びる。全てが霊的な視覚の前に展開するのを感じる。これが絵を描くことの意味だと今はっきり分かった。
ルカ伝「私が死なねば救い主はあなた方の元に来ないのだ」(画)

2018年12月2日日曜日

進化する顔

トワンが死んでからガハクの顔をよく見るようになった。互いの顔を見ている時間が増えたのだ。トワンにスーッと澄んだ目で見つめられた最期の夜を思い出す。あの目に見つめられたら何かが変わる。実際にガハクの顔が変わった気がする。
石に彫ったこの人の顔がだんだん好きになってきた。今日は額の側面を少し削って顔を小さくした。目尻が爽やかになった。もっと明るく強くなるはずだ。気がつく度にいじる。見えた一瞬を逃さない。(K)


2018年12月1日土曜日

ムク犬

犬の夢を見た。
どこからか白い大きなムク犬が家にやって来て、縁側にいる僕の前を横切って庭の奥の方へ歩いて行った。大人しそうだから放っておいた。やがて玄関の呼び鈴が鳴り、出てみると宅配のお兄さんがいて、庭に何かいて足を取られて転びそうになったと文句を言われた。
そこで庭を眺めて見るとさっきのムク犬らしい大きな毛の塊のような小山ができている。さっきの犬が庭に穴を掘り体を半分埋めて転がっているみたいだ、と思ったがやっぱり放っておいた。そしてさらに良く見るともう1匹同じくらいの大きさの黒いやつがその後ろに小山を作っているではないか。どうやら彼らはこの家を住処にしたいらしかった。
その夢を妻に話したら、
「ムク犬〜、ファウストの前に現れたメフィストはムク犬の姿だったよね〜あゝぁ、それでもいいから飼いたいな〜」て。(画)

2018年11月30日金曜日

樹海と雲海の違い

柔らかく地上を覆う雲が天使の翼なら、地上近くに低くたれ込める雨雲は不気味な姿をした何者かだ。すぐ横には樹海が広がっている。それらの起伏を石に彫ると、森も雲も同じようになってしまう。雲の動きを出せないかとパステルで石の上に描いてみて、その線の通りに鑿で刻んだら、、、おお、少しもくもくして来たぞ!(K)


2018年11月29日木曜日

『告白』

ルソーの『告白』を読み終えた。面白い本だ。何が面白いのか分からないままに読み続けてしまった。
ずっと前に一度読んだと思っていたが間違いのようだ。しかし何箇所かは読んだ記憶があった。拾い読みしただけか?そういえばルソー自身、忘れっぽい性格ゆえに何度も同じものを見て、いつも初めて見た時と同じように感動できていいと書いていた。
芸術は常に発見し続ける活動そのものだ。客観的な視点からは同じことの繰り返しに見えたとしても、常に新鮮な発見の驚きと喜びがそこにあれば作品は美しく生命を持つ。
型にはまっていたとしても美しい、それが驚くに値しないのはその為だ。(画)


2018年11月28日水曜日

人が彫れるようになるまで

月に向かって立っているこの人の重心の位置をやっと捉えることが出来た。腰と膝の位置を微妙に修正。スーッとするエーテル状のスフィアに包まれてこの人が一番前面に出て欲しかったので、今夜は満足している。遅々として進まないと思えて焦る気持ちになった時ほど、本当は動いている。人が彫れるようになるまで、長い道程だった。(K)


2018年11月27日火曜日

花咲く樹

ゴッホに「花咲くリンゴの樹」と題された絵がある。題名をつけたのはおそらくゴッホではないだろうし、別にどうということもないそのままのものなのに何故かとても印象に残った。画集でしか見たことはないがおそらく南仏の強い日差しの下で満開の白い花がキラキラと美しく輝く、そのタッチの鮮烈さと共に想像に難くない。
花咲くリンゴの樹…
花咲くリンゴの樹…
…と繰り返してみる。家の庭のリンゴの樹は去年に続いて今年もたくさん花をつけた。その時もこの言葉を心に繰り返していたのを思い出す。
花咲くリンゴの樹。
『ガジュマルの樹』この冬ついに花が咲いた。(画)

2018年11月26日月曜日

生きる歓びと死の効用

月が照らす角度は一様ではないことが分かった。山の端の彫りを浅くすると輝きが強くなる。

秋の色に染まった山を見上げていると、そこらじゅうにトワンがいるように思える。死は不在ではなかった。目に染みる赤や黄色、心がポカッと暖かくなる寂しさ、こういう経験は初めてだ。完璧に可愛らしいものだけが残してくれるものだ。ずっと一緒に、この意識の階層に住むことにした。(K)


2018年11月25日日曜日

失うことで得る

直後より今の方が寂しさが募る。寂しいねえとすぐ横で言われるとさらに募る。だからもう言わんといてよ…すきま風のようなものが体の中を通り過ぎていくようじゃないか…と思いながらどこか暖まってくるものもあるのだ。
無くしたことで得るということは確かにある。思いの中に固定された天使の面影。形と光と手触り温もり質感…。何度でも反復でき、完成されたものとしてどの角度からでも観察することができる。
そういうものとしてこれからも生き続ける。(画)


2018年11月24日土曜日

限界を超えて彫る

限界だと思っていたのは自分に制限をかけていただけだった。ほんとはもっと先に行きたいし、行こうと思えば行ける場所なのだ。少しずつ外される制御装置。空間が四方に広がる。水の中まで潜り込む気流、貫く光線。曖昧だった面が方向性を持った。これは森の方まで広がるぞ。(K)


2018年11月23日金曜日

びょーき

腹痛が度々あってうんざりする。空腹になると出て来るらしいうんと若い頃からの悩みの種だ。画布の前でなかなか描こうとしないのもモノグサな性質のせいではなく大抵これが原因だと最近分った。
絵が描けなくなるにはちょっとした不調で充分だと思うが、大作家になるとそうではない。宮沢賢治は病床で詩や短歌の清書を完成させたそうだし、ウィリアムブレイクも病床であのヨブ記のエングレービングを彫り上げたということだ。凄まじい表現欲ではないか。
結局ガハクはそれほどの作家ではないという証明だな。今日も胃薬を飲んでがんばった。(画)

2018年11月22日木曜日

月への道

トワンの周りに刻んだ卵を軸にして位置をはっきりさせようとしていたら、月にダイレクトに繋がる道を見つけた。
それは、二つの渦の真ん中にある。二つの輪が高速でぐんぐん回り出すと、間にジェット気流が沸き起こって、凄いスピードで地上に降りて来れる。もちろん上昇だってあっという間だ。二つの輪は善と真理で止まることなく常に回っている。

月までの通路が分ったところで道具を片付けて外に出たら、今夜の月も卵の形をしていた。(K)


2018年11月21日水曜日

進歩

今の作品を以前のものと比べて見て、今の方がよければ自分が「進歩」している証拠だから、昔のを廃棄するとF先生が書いていた。
これがジャコメッティだったら壊すことなくすぐに修正を始めるに違いない、「進歩」した今ならもっといいものになるだろうと。 廃棄するのでなく「壊して作り直そう」とするだろう。

この以前の絵を直すべくしばらく眺めていたが、これはこれでいいと思った。たぶん少しの修正を加えるだけで充分だろう。
僕の「進歩」は、昔の絵の中にある当時の描く動機、描き方に潜んでいる充実と空虚、純粋と不純の見分けがつくようになったことだと思った。(画)

2018年11月20日火曜日

球の中の卵

気体の渦が卵型になった。球の中でブンブン回っている気流の渦だ。「死は卵だ」と詩人が書いていた通りになった。あとは、海底に光の文様を刻みたい。水の中の月には波の模様を。球の底や海面の裏側が、海底の照らし返しでぼーっと明るくなるのが面白い。

トワンが彫れればあとは何とでもなる。彼が連れて来る者たちは美しく瑞々しい、いつも生き生きと飛び回っている。そういう所と交信しながら彫っている。(K)


2018年11月19日月曜日

トワンの夢

数夜連続で夢に犬が出て来たが、なぜかどの犬もトワンとは似ても似つかぬ犬種だった。昨夜ついにトワンの夢を見た。夢でいいから出て来て欲しいという願望が満たされたし、それも多くのエピソードがに飾られていて嬉しいものだった。しかし起きた瞬間にそのほとんどを忘れてしまっていた。残念でならない。
人の記憶力は相当なもので、見たり聞いたりしたもののほとんどを脳は蓄積しているのだそうだ。だから覚えておこうとするより思い出そうとした方がいいと。詰め込むより掘り出せということか。
でも英語では「覚える」も「思い出す」も"remember"なのはどうしてだろう?(画)


2018年11月17日土曜日

いなくなって現れる

トワンのまわりの渦をぐんぐん大きくしているうちに、山がすっかり渦に隠れてしまった。二つの渦の間をどうしようか、左から流れ込んでいる激流を彫りこもうかと悩んでいるうちに体内バッテリーがエンプティー。今夜はここまで。トワンが死んでから彫刻の中のトワンが生き生きとして来た。(K)


樹の形

自然の中で生まれる樹形はその樹の環境に最適な形にできあがっているのだろう。それを人が剪定するとなると生花と同じでそこに人の美意識が入り込んでくる。抽象美の世界だ。しかしその美学はそもそも自然を観察しそこから感じ取った何かを元に生み出されたものではないか。
自然と美のどちらが先とは言わない。自然は神の領域、美は人の領域。神が先か人が先か…しかし実はそれらは入れ子なのだ。
樹を描きながらそんなことを思った。(画)


2018年11月16日金曜日

冒険している

冒険に大きいも小さいもない。新しい歌を歌おう。それは目新しいことじゃなくて、人目を引くことでもなくて、ただ発見することなんだ。空の向こうのずっと遠くまで見通すことが出来れば一気に真っ直ぐそこまで飛んで行きたいが、人間だから一歩ずつ前に進んでいる。トワンが先に登ってはこっちを振り返って待ってくれている。夕方は茜色の空が広がって、朝はピンク色に山が染まる。夜は月のそばに火星が大きく燃えている。今のうちだ。ガハクと話せるだけ話そう。意識の革命を起こすのだ。(K)


2018年11月15日木曜日

「ガジュマルの樹」の花に鳥。花の蜜を吸いに来るのだ。飛びながら蜜を吸うハチスズメ?彼らはいつもツガイでやって来る。Sの頭上を舞い彼を祝福する。彼は画家なのだ。霊感の元で仕事をする。彼の目は鋭くも優しく対象をしっかりと見続ける。生の向こうにある死までも。(画)

2018年11月14日水曜日

月の光

月を空より抉ってみた。質量のない光だけの存在。インディゴブルーの天空に光の球が浮遊している。山の稜線に光が溜まり、男の顔も月の光を浴びて輝いている。(K)


2018年11月13日火曜日

パパを守ってよ

深夜になって腹痛が来て描こうとしても体が動かなかった。しばらく寝転がっているとおさまってくるので絵の前に座り直すのだがすぐ腹が痛くなってくる。
苦しさを我慢しながら描いていると、芸術に憑かれた巨匠のように思えるから悪くない(強がり?)。
よく起きる腹痛には困ったものだがトワンの手足を洗い体のブラッシングをする時、よく腹痛があったのを思い出す。
「トワン、今日はパパお腹が痛いんだよ、治してよ、パパを守ってよ」とブラシをかけながら呼びかけたものだった。
もっと描き込まねば。(画)


2018年11月11日日曜日

水の中の月

海を深く抉っている。海の暗さが欲しいからなのだけれど、石の縁のところはどうしても明るくなる。頭で考えたようには行かないので、彫りながら探っている。

ここまで深くしてみて気が付いた。海も実は空洞で何にもないところなのだと。水で満たされて初めてどこにでも行ける自由空間になるのだ。空もそう。満たされているものがあるから美しいのだ。窓がオレンジ色に染まるほどの夕焼けと、空中に充満した輝く光の粒がそれを証明してくれた。

海に漂う月はほんのりと明るい。甘くて美味しそうな形になった。(K)


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