2019年3月29日金曜日

見つめる目

見つめる目をやっと彫れた。髪の毛もすっきりさせた。頭は軽い方がいいんだ。額の明るさが彼の聡明さを表しているようじゃないか。素直で疑うことを知らない純情な瞳は、美しいものをどんどん吸収する。そうすることで心の泉が潤うのだ。食べるもの、飲むもの、見るもの、聞くもので人の生命体は出来ている。情報過多のこの時代の損得勘定が生き延びる力を消耗させている。好きなものが善いものかどうかママに聞いてもダメだ。ママもほんとのことを知らないのだから。スマホで検索して自分の好みの物や人を探す時代だもん。真善美が一致するとすごいことになる。ほんとに素敵な人が一人いれば、どこかにもう一人いるってことなんだってボイスが言っていた。だから失望はしていない。(K)



同じ顔の違う表情

やっぱり気になるものは仕方ない。また描き直しだ。たぶんもっと良くなる。人生はいつか終わるのだが、絵には終わりはない。一枚の絵にも終わりはない。描きながら自分の変化を感じるし成長を期待してさえいる。
なかなか完成しないで困ると心にもないことを愚痴ったら、一枚の絵をいつまでも描いていられるなんて理想的じゃないかと画友に言われた。でもおそらくそうだろう。
そしてテーマなんていくつも要らない。たくさんのテーマを抱えて描いたとしても最期にはそれは一つの顔の違う表情でしかないと気づくに違いないのだ。(画)


2019年3月27日水曜日

春来たるらし

13時にアトリエに着いた。いつもより早い。少しずつ夜型を朝の方へずらしたいのだ。今日はその第一歩。今日のように暖かいとストーブも要らない。

17時、畑にジャガイモを植え付けようと外に出たら、太陽はとっくに山の向こうへ沈んでしまっていた。少し涼しい。ズボンの上から巻きスカートを着た。スーパーで買って来た食用のジャガイモを半分に切ったら中が黄色い、たぶんキタアカリだろう。大きいのが沢山採れる品種だ。

18時半、ジャガイモを25個植え付けたところで辺りはすっかり薄暗くなった。 石を彫りながら野菜を育てることがもう35年続いている。

若い頃シンポジウムに参加する為に2ヶ月アトリエを留守にしたことがある。あれは辛かったなあ。終わってすぐも、ずっと後から眺めても決していい眺めではない。今のようなやり方が分かるまでずいぶん時間がかかった。かかり過ぎたかもしれない。少しずつしか知恵が付かなかったから仕方が無いが、ゆっくり出来上がったものはそんなに簡単には滅びないだろう。

予定通りに20時ぴったりに帰宅。途中で鹿に会った。自転車の前を慌てて横切って川に降りていった。いつもながらの黒くてくりくりした大きな目、柔らかくしなやかな跳躍、トワンの感触を思い出した。(K)



幽玄

奥の細道を読んだら、芭蕉の俳諧は日本の和歌から中世時代人の死生観や美学、それは一言で言えば幽玄の世界への傾斜なんだと分かった。
それでふと気づいた、ルドンの絵の裏にあるのはまさにこれだ、幽玄のイメージだと。ルドンの気味の悪い感じ、背後に何か見えないものが潜んでいるように見えるがそれが何か分からない、その謎に手がかりができた感じがした。ルドンと源氏物語や枕草子が芭蕉のおかげで繋がりそうだ。
でも今描いているこの絵にそれはないな…。(画)


2019年3月26日火曜日

小鳥がとまる肩

足元から彫り直しているうちに、 背中がわずかに曲がっているのに気が付いた。適当に彫ってあるのがいけない。明るくするのか、暗くするのか、重くするのか、何もないようにするのかを意識しないと彫刻にはならない。このままじゃただの人形だ。少しずつマントを削って様子を見たら、何とかなりそうだ。今夜はここまで、続きは明日だ。(K)


2019年3月25日月曜日

色の限界

色の限界ってあるのだろうか。
画面いっぱいに深い青が塗ってあり一見するとそこには線もなく形も見えない。しかしじっと見つめていると中央にもっと暗い青で塗られた正方形が浮かんで来る。青の中の青。月のない夜の暗さの中に何かの形が見えるのか、闇の中の闇なのかそれともどこかへの入り口なのか…。そんな絵を昔見たことがある。
あれに比べれば青の時代と呼ばれるピカソの青ばかりを使った絵さえ多色に見える。
絵の色の限界というものはあるのだろうか?
絵は見る人によって成立する。見る人の色彩感覚に絵の色は委ねられている。仮に自分に見えて人に見えない、またはその逆に人に見えて自分には見えない色があるとすれば、この両者の色感覚の共通枠に収まりきらないゾーンがあることになる。
それでも絵を描く、絵を見る。人に見えて自分に見えない色のことなどほとんど気にはしないで。(画)


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