2020年3月20日金曜日

鋭敏な熱意

ガハクは生まれ変わって帰って来た。ビシビシ判断して来る。曖昧な返答をすると即見破られて反撃が厳しい。しかしこの先までふたりで行けたら目が四つになって、もっとはっきり見えて来るものがあるだろう。こういう状況は初めてだ。彼の目は強くなった。新しい目から見ると、要らないものは一目瞭然、バシバシと片付けている。

昨日は棚の中に突っ込まれていた何年分もの年賀状を見つけたそうな。紙類は小さく引き裂いて破ってゴミ袋に詰めるようにしているガハクは、リハビリも兼ねているのだ。ずんずん片付けているうちに心が軽くなって行くのが不思議だった。「なんて気持ちがいいんだろう」ところが、なかなか破れない葉書があった。精一杯の力を入れても破れない。確かにリハビリ中ではあるけれど、他の紙はさっと破れるのがほとんどだ。「おかしいなあ、誰のだ?」和紙だったり、特殊なフイルムコーティングが施されていたりする。「結局年賀状なんて政治なんだね」と結論したガハクは、その濃淡を明確に見破った。「一切の過去を捨てよと言われている通りだ。これからの僕たちは愛に生きるのだ」とキッパリと言うガハクである。

足の先に深い奥行きが欲しくて、この三日間そこばかりを彫っている。(K)


2020年3月19日木曜日

闘病の記録

ガハクが退院した日にホームセンターに寄って枕を買った。病院で真っ白の大きな枕で寝ているのを見ていたからだ。ガハクにはずいぶん長い間、粗末な小さな枕でずっと我慢させていたことが申し訳ないと思えても来る。売り場で見たら、いろんな素材の枕があって迷ってしまった。蕎麦殻が詰まった枕にした。安いし感触が良い。その夜の感想をあとで聞いたら、気に入ってくれたようだ。よく眠れる枕は良い枕だ。

風呂場を掃除するのに使う棒付きタワシも買った。早速今朝、風呂場の天井を洗い始めたら、ポタポタ汚れた水滴が頭に落ちて来る。その後、シャワーを浴びた。庭で鶯がずっと鳴いていた。

ガハクが書き写しているのは私のノートだ。彼の記憶にはない救急搬送された最初の頃のあの緊迫した状況を口で説明するのはなかなか苦しい。話しているうちにだんだん辛くなってしまう。なので、ノートを差し出したら、「あゝこれが知りたかったんだよ!」ガハクを変えてしまうほどの大きな出来事になった今回の病気のことを彼は今、仔細に記録しようとしている。(K)


2020年3月18日水曜日

祝復活

昨日はケーキを焼いた。いつもになく腰がしっかりしたスポンジになった。降って来た苺が最高に甘くて、生クリームの白によく映えた。

今までとは違うものが冷蔵庫にいっぱい入っていて、うちの冷蔵庫らしくないとガハクが言う。「もっと美味しいものを食べなさい」と入院中に言われていたから、この一月半は意識的に食材を揃えるようにしていたのだ。ガハクが帰って来てからは尚更だ。三度の食事が全て彼の血肉になっているのが分かるから。40kgしかなかった体重が、43kgまで増えた。明日も、明後日も、美味しいものをしっかり食べて活動していく。

今日はパン練りを私がやって、後はガハクに任せてアトリエに出かけた。ぎりぎりまで膨らませてオーブンに入れるタイミングはガハクの方が年季が入っている。 しっかりした角形食パンが久しぶりに焼き上がった。

お皿を洗って拭いて棚に片付けることも今日はガハクがやってくれた。ひとつひとつの作業にハアハア息が切れる様子だけれど、それで胸が苦しくなることはもうない。肺の形も色もしっかり復活しているから、安心してやっている。ハアハアしながら強くして行けばいいとリハビリ師にも言われている。

今朝は布団を上げてみようと思い立ったガハク。布団からスクッと初めて立ち上がった朝でもある。思い付くとすぐにやってみるのが生命力の横溢。この人は子供のような無垢を未だ失わずに持ち続けている。(K)


2020年3月17日火曜日

情報リテラシー

「情報の取り方を間違えると怪物に呑み込まれるんだよ」と夕飯の土佐寿司を食べながら、ガハクが言うのを聞いていた。彼の言う怪物とは、ICUで肺に酸素を送り込まれて身動きできない混濁した意識の中で見た者達のことだ。恐怖が人を惹き付けるのだそうだ。

マリーアントワネットが、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と言ったという逸話について、ガハクが思いもよらぬ解説をしてくれた。すぐには解らなかったが、めげずに議論しているうちにふと、昔読んだシモーヌ・ヴェイユの唯一の戯曲『救われたベネチア』の中に出て来る貴族の娘のことが思い浮かんだ。ただの世間知らずの情報の欠如が作り出す美への憧憬とばかり思っていたが、そんな単純なものではなかった。

「災いだ!禍だ!」という叫び声が響いてくる。だけれど、美味しいものを食べていると冷静でいられる。(K)


2020年3月16日月曜日

新しい生活

退院した初日はパソコンは見たくないと言っていたガハクが、二日目にはシェーバーの部品をネットで検索して取り寄せたし、今日は体温計をネット注文していた。 どちらも立て続けに壊れてしまったからだ。この際ちょうどいいタイミングなので、ボールペンの替え芯も注文。

 私は風呂場の改造に取り掛かった。椅子に座ってシャワーを浴びたいというガハクの提案で、風呂桶に板を渡して座れる場所を作った。

苺が降って来たのでケーキを作ることにした。それが今までになく腰がしっかりしたスポンジケーキが焼き上がった。全てがカチッカチッと嵌っていく。

汚い場所を掃除して、要らないものを捨てて、必要なものを買う。こういう簡単なことをどうしてやろうとせずに放っておいたのだろう。

夕方になってやっとアトリエに出かけてだいぶ暗くなってから帰って来たら、トワンの石が外灯に照らされていた。久しぶりだ。家にガハクがいる。ただいまと言うと、「おかえり」と声が聞こえた。要らない雑誌や紙をビリビリに破ってはゴミ箱に捨てている。そういうこともリハビリになるのだそうだ。(K)


2020年3月15日日曜日

今年もアマリリスが咲くよ

昨夜はいつまでも話していた。布団に入ってもまだ話し続けて、新聞配達のバイクの音が聞こえたのでようやく寝ることにしたのだが、それでもしばらくポツポツと会話。そのくらい話が尽きなかった。死の恐怖をどうやって押し除けたのか、何に守られたのか、ガハクの記憶が曖昧な時期を補完しながら時空を埋めていく作業は面白い。浮き上がって来るものを凝視する。

この家の音を聴きたいというガハクの意向を汲んで、音楽はかけないでずっと過ごしている。今朝は鶯の声に起こされた。ほとんど眠れなかったガハクは始発の電車が秩父から走って来るのに耳を澄ましていたそうだ。

アマリリスが明日あたり開きそうだ。 山で死んだガハクの親友のお母さんがくれた球根なのだけれど、毎年美しい花を咲かせてくれる。もう20年以上こうやって部屋の中で蕾を膨らませて、開く頃には春になる。大事な息子を亡くした人にいろんなことを教わっていたことが分かった。花は実を残す。(K)


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