2020年8月29日土曜日

トワンの足

トワンの足がずっと気になっていて、あそこから彫り直したらきっとうまく行くとは思っていたが、それをいつ実行するか、タイミングを狙っていたのだった。

で、今日ついに彫り始めた。やっぱり時が熟していたんだな。可愛いトワンの足先が出て来た。

今までやったことを土台のように使えれば、過去の自分だって使える。やったことを否定する必要はない。今となっては、どこにも行かなくても良いことが都合が良いし、有難い。こうやって、何度彫り直しても構わないのだもの。(K)


2020年8月28日金曜日

木刀の代わりの枝を持って

山の中を歩いているガハクだ。珍しく自撮りしてみたのだそうな。
ちょうどいい画角を想定して小さなデジカメを岩の上に置いて、歩き出した背中がやや固い。撮影されているのを意識しているからだな。ただ勝手に歩いている時のガハクはもっと爽やかだもの。「白いTシャツは合わないなあ。色があるのにすれば良かった」と言っている。

見せようとせずに描いている。見てくれる人はいつも傍にいる人だ。芸術は優しく明るく高い場所に誘う。(K)


2020年8月27日木曜日

いいものができる予感

机の上に銅版のプレートが幾つも並べられていた。

今夜はガハクの夢に出て来た王子を彫り直していた。「おいでください。あなたは私たちのシュゾクです」と告げられたという。その人は、ずっと昔に別れた友達だったのだけれど、実は向こう側の世界の王子だったのだそうだ。

「このままじゃ可哀想だから彫り直しているんだ」と、体の方はすっかり削り取られて、顔だけになっている。今のガハクなら、もっといろんなことが思い浮かぶだろう。(K)


2020年8月26日水曜日

背中が離れた

両側から削っているうちに、今日とうとうくり抜いてしまった。向こう側とこっち側の帯のラインがぴったり合ったし、空間は広がったし、風通しもよくなって、第一この子が楽しそうなのが良い。やってみるまでは分からない。やった後でやって良かったと思う。そしてもう次のことに取り掛かっている。次々と与えられるテーマに翼の角度を変えながら風に乗る。(K)


2020年8月25日火曜日

手乗り蝉

ガハクの手に蝉がとまった。
「いつまでもじっとしているから、死んでいるのかと思ったよ」ポケットからデジカメを取り出して間近で撮影。またもや後ピン。でもミンミンゼミだということは分かる。

「山の中を歩いていると、蝉がときどきぶつかって来てね、頭や肩や背中にポンと当たっては飛んでいくんだ。別に痛くも何ともない」と、自分のおでこをツンと軽く突いてみせる。

蝉の背中をそっと摘んで木に留まらせたら、パッと飛び去った。
「まだ生きていたよ」とガハク山中午前9時、蝉の大合唱の中を歩いている。(K)


2020年8月24日月曜日

新しいマグノリア

これまで彫った銅版のプレートを眺めて「ぜんぶ彫り直してみようと思う」と言い出したガハク、今夜は早速『マグノリア』を削っていた。一年前のと今日のと、二枚の試し刷りが並んでいる。どっちが新しいか分かるだろうか。淡い陰影から香りを放っている方が今夜の刷りだ。

これまで夏には銅版はやっていなかったのは、版画室にはエアコンがないという理由もあるけれど、細かい作業と集中に夏は向いていない気がしていたのかもしれない。肺炎で70日以上も絵を描くことから遠ざかっていたガハクは、体だけではなく、意識もリセットされたようだ。無意識に習慣化していたことや、思い込んでいたことが再点検された。実際に退院して間のない頃、まだ歩くこともままならない時にやったことは、本棚や机の引き出しや箱の中をぜんぶひっくり返して、要らないものと、これからも使うものと、大事なものとを分類することだった。それをやり遂げてやっと、これから意識を鍛えようという覚悟ができた。

ゲーテがファウストを死の直前まで書き続けていたように、ガハクもずっと描き続けることができるだろう。その為の、新しい魂が吹き込まれた。(K)


2020年8月23日日曜日

気配

昨日もガハクは山で鹿に会ったそうだ。きっと同じ個体だろう。山の斜面を駆け上るためにはガハクに接近せねばならず、それでも構わず横をすり抜けて行ったそうだ。野生の鹿の姿は美しい。そこらに潜んでいると思うと、この山も庭園のようだ。

ツクツクボウシが今日から鳴き始めた。すぐ近くの木にとまったので、煩いくらいだった。あの蝉は発声がはっきりしている。大きな口を開けて叫んでいる。
「もう夏は終わるよ。秋になるよ。すぐに冬が来るよ」と聞こえた。(K)


空の鳥

カラスが飛んでいる。ガハクが空を見上げている。ゴム長に足を突っ込んだ時はピッチピチだけど、しばらく歩くと楽になるという。浮腫みというものは体の中の沈殿なんだな。

隣家から子供の歓声が聞こえて来た。庭にビニール製のプールを出して水遊びをしているのだ。お父さんになった若い男性がシャワーを浴びせかける度に、子供らはきゃあきゃあ騒ぐのだ。幼い子らの黄色い声には慣れている。

まだ若かった頃はあの声が嫌だった。幼稚園に近づくと子供らの声がだんだん大きくなって、いよいよ門をくぐるとマックス。子供という扱いにくい生き物たちに良いものを与える、彼らの我儘を引き受ける、事故のないように見張っていて、親たちに引き渡すまでが仕事だ。

ガハクと交代で教えていたのを二人で教えるようになったのは、私が坐骨神経痛で倒れた後のことだ。支え合うことで仕事も楽になった。子供が好きになったのは、何よりも大きな収穫だ。小さな子が一人前の立派な顔をして画用紙に向かうのを知っている。大人になって捻れてしまった心に何を言っても通じないけれど、子供の頃にあったあの意識をまだ持っている人とならば、話ができるだろう。(K)


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