2020年12月19日土曜日

彫刻を見る目

 彫刻は、大昔の人たちの方が見る目を持っている。牛や馬がいて、犬や猫がそこらを歩き回っていた。朝になると鶏の声が聞こえた。音や声を聞けば、その姿を思い浮かべることができた。

ときどき山からぴゅーっと鋭い口笛のような声が聞こえて来て、ずっと猿だと思っていた。ところが、ガハクが山散歩を毎日するようになって、あれは鹿の声だと分かったんだ。歩いていると、突然近くてぴゅーっと鳴いて斜面を駆け上がっていく。

アオサギの声も覚えた。ギャーッギャーッと汚い声で叫びながら飛ぶ。たまに大量の糞を上空から落としたりもする。あんなに大きな鳥が絶滅もせずに川に舞い降りたりしているのを眺めるのは、楽しい。脅かさないように、横目で観察しながらペダルを漕ぐ。彼らは神経質で、視線を感じるとすぐに飛び立つ。

横からのシルエットがやっと決まって来て、後頭部の形を探り始めたところで今日は時間切れ。置物の犬から、生きている犬になりつつある。(K)



霜の道

ガハクの山散歩ルートもすっかり冬の世界になった。ここは、このまま夕暮れになる。

彫刻のアトリエも今日は0度だった。 ストーブに薪を焼べ始めたら、屋根からカサコソ音がして、やがて壁に下りて来た。たぶんネズミだ。部屋が暖かくなって喜んでいるみたいに思えた。体操をやり始めても音は止まない。壁をコンコン叩いても、一向に静まらない。まるで私のことを知っているみたい。水のバケツの辺りでゴソゴソ大きな音がするので近づいて観察していたら、現れた!お尻がぷりんした黒っぽい太ったネズミだった。ちょっと可愛い。

安全靴に栗を入れられたこともある。胡桃の殻が転がっていることもある。ネズミの冬期小屋になっている。(K)



2020年12月17日木曜日

黒猫を抱く少年

最初に飼った猫が黒猫。その次に舞い込んだ猫も黒猫。その猫が産んだたった一匹の猫も黒猫だった。影か実態か分からぬ黒い輪郭。頭だけが、やたらにでかい子猫の姿。さすがによく描けている。よく知っているからだな。

少年の姿も素敵だ。もう40年も子供らに絵を教えて来たから、自分の子はいなくても子供との付き合いは長い。彼らはずっと子供なんだ。自分の子なら、だんだん大きくなって子供ではなくなるものね。少年の心は傷つきやすく繊細でストレートで歪みやすい。そういう柔らかさが描けている。さすがだ。

森のこと。樹木のこと。そこに住む妖精のこともそのうち描けるようになるだろう。こんなに毎日山の中で遊んでいるのだもの。今日は、寒空に風が舞い上げる木の葉がちらちらキラキラ光る一日だった。(K)



2020年12月16日水曜日

半ズボンの少年

今朝「あの子は半ズボンにしたよ」と話していたので、夜になって見に行った。サッカー少年みたいだ。顔もすっかり変わっていた。

何かが外れていなくなると、新しい何かが入って来る。それまでは、どう足掻いても雰囲気というのはなかなか変わらないものだけれど、知らない間にじわじわと動いていたんだろうな。風がさらって行ったように 大きな絵が一気に変わった。

最近は、絵具練りもぜんぜん疲れなくなったと言う。体が丈夫になった。胃弱だった体質も変わった。この冬の寒さに耐えられれば、この変化は本物だ。ヤマユリの枯れた茎をハサミで切ったのが、ガハクの孫の手だ。先端が少し曲がっている。それで背中をコリコリ掻いている。背中にも筋肉が付いて、ガッチリして来た。(K)




 

2020年12月15日火曜日

樺の木に出会う

太陽に照らされて白く光っていた木に感動したガハクが、「賢治が書いているのはこれかと思ったよ」と言う。『土神と狐』が恋した樺の木のことらしい。つやつやと白く光っていて、触るとすべすべして、まるで女の人の体のようだったとも話していた。

スエデンボルグによれば、人が植物を眺めている時はその内側では人のことを想っているのだそうだ。逆に動物を見つめている時には、草花や樹木のことを考えていると書き残している。

ときどきハッとするような輝きに出会う。出会ってしまうと、もう戻れない。冬の乏しい太陽の光に真横から照らされてこんなにくっきりと鮮やかに、青と白。(K)



2020年12月14日月曜日

2匹のデュエット

犬だからと言って、人の像より密度が薄いわけじゃない。でも犬のことをよく知っているかと言うと、曖昧なところが多々ある。 特にこの子の顔がなかなか決まらなくて苦労したが、やっと良くなって来た。やっぱり目だね。目さえ出来れば、あとは自然に、そうでしかあり得ない形になって行くようだ。分かりもしないのに強引に、見えてもいないのに性急にやらないことだ。

やる気がない時はパンをかじりながら眺めたり、ときどきサボっているくらいがちょうどいい。2匹の耳がいい感じに触れて来た。(K)



2020年12月13日日曜日

膝の赤子

「おゝ 描けたじゃないか!」と思わず口に出して独り喜んだと言っていたのは、これか。

膝の赤ん坊をしげしげと見つめた。母親に抱かれて安心して中空を眺めているこの子のどこがそんなに難しかったのだろうと思いながら…出来てしまえばごく自然なポーズだ。絵の中の出来事の全てがそんな風だ。

母親の手が素敵だな。膝の深さがゆったりしている。草履を履いた白い足袋の位置が美しいじゃないか。この赤ん坊が大きくなるまで、この森はあるだろうか?

その人はぽーっとして、内なる興奮を抑えている夢見るような目を辺りの山々に向けて、駅下の売店のベンチに座ってパンを齧っていた。瓶入りの牛乳をときどき口に含みながら。その様子は、声をかけるのが勿体ないような美しい時間に見えた。でも、さっと車を降りて、「テルオおじちゃん!」と呼び掛けたあの日。

『Mの家族』は、そういう未来まで描き尽くすガハクの試みである。(K)



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