2020年2月29日土曜日

文通

エレベーターを降りてすぐの場所でじっとガハクの病室の方を見つめていたら、ゆっくり出て来た。看護師に囲まれて点滴とかぶら下げるキャスター付きの棒に掴まっている。そして私に向かって大きく手を振ると、OKマークを右手で作って、「穴が塞がったよ!大丈夫だよ!」と大きな声で叫んだのだ。一気に緊張がとけた。

届けた荷物は、パジャマ一着、スケッチブック2冊、B3の鉛筆2本、練り消しゴム、三色ボールペン、セロテープ、宮沢賢治の文語詩50篇の解説本、シェーバー。中に小さな手紙を入れておいたら、ガハクが返事をくれた。 夜になって電話も来た。

「美味しいものを食べなさい。お煎餅やケーキも食べたほうがいいよ、あれは潤いだよ。いい材料を決まったやり方でやるだけじゃ出ないものがあるんだよ。きっと、それは、愛だろうね」と言う。病院食がとても美味しいのだそうだ。残らずきれいに食べているガハクは、栄養士さんとも食べ物について話したそうだ。その栄養士さんは、大病を患った後にほんとうに美味しいものが作れるようになったと話してくれたそうだ。ガハクは、帰って来たら料理の研究も始めるつもりらしい。(K)


2020年2月28日金曜日

右肺の小さな穴

夜8時過ぎた頃にガハクから電話が入った。「大事なことから話すね」と切り出されたから、何か悪いことが起きたのではと緊張した。レントゲンとCTを撮ったら右肺に小さな穴が見つかったそうだ。塞がっていくのであれば問題はないが、もし広がるようなら手術をして小さなポンプを入れるのだという。順調に回復していると喜んでいただけに、ガハクはガッカリしていた。リハビリも中断。安静に過ごすようにとの指示。明日もレントゲンを撮って経過を観察して、週明けにはっきりするだろうとのこと。

「スプーンで慎重に食べていたのに、そんなことを言われたから何かぼんやりして、知らない間に箸を使って食べていたよ。そんなもんなんだねえ」と笑っている。
「でもさ、ポンプ入れたって平気だよ。生きていけるのなら」と持ち直していた。

公衆電話まで車椅子を押してもらって、あとは廊下で一人で話しているという。緑色のあの電話だ。ガラス張りの11階からは、1週間前に脱出して来たICUセンターの灯も見えるだろう。もう一度飛ばねばならない。二人して力を合わせて二乗倍の飛翔力が必要だ。

花びらのように指をひとつひとつ彫っている。刻み方ひとつで、手は花になる。(K)


2020年2月27日木曜日

おっぱいパン

今日もいつものように11階でエレベーターを降り、ナースセンターで面会申し込みを書き込み、窓を開けて用紙を渡そうとしたら、「あ、今日から面会は出来ないんですよ。お電話したのですけど、お留守だったので連絡出来なかったのです」 コロナウィルス対策の措置だそうだ。
周りを見渡すと確かに誰もいない。静まり返っている、、、
ところが、廊下の奥のガラス窓の前に車椅子のガハクが見えた!

おーい!ひろみさ〜ん と叫んだら、ガハクはすぐに気が付いてこっちを振り向き両手を高く上げて振っている。距離にして30メートルくらいか。
何か欲しいものある?と叫ぶと、聞き取れない声で何か言っている。近くにいた看護師さんが笑いながら教えてくれた。「愛が欲しいそうです」と。
いつものガハクだ。両手で投げキッスをして返した。

でもガハクは元気そうだった。「酸素が外せたよ!」と 嬉しそうに手を振る。これで全てのチューブが体から取り除かれたわけだ。食事二日目もぜんぶ残さず食べているとのことだし、トイレもオムツを汚すこともなく自分で排泄できているという。リハビリも今日は廊下をずいぶん歩き回ったらしい。ガハク倍速で回復している。

廊下の隅に公衆電話があるのを思い出して、小銭と千円札を一枚、ガハクに渡してくれるように看護師に頼んだ。私のケイタイの番号のメモも一緒に。

ガハクが入院してからは私がパンを焼いている。昨夜は病院からの帰りが遅くなったので、適当に焼いたら、2本目はおっぱいパンになってしまった。(うちでは二つの山が並んだ形のパンをそう呼んでいる)ガハクが帰って来たら食べてもらおう、おっぱいパンを♪(K)




2020年2月26日水曜日

手の力

今日からガハクの歩行訓練が始まった。「まずあの窓のところへ行ってみましょうか」とリハビリ女史。「ほら、あの山の向こうに見えるのが先日までいらした国際医療センターですよ。あそこは5階が最上階ですが、ここは11階だからよく見えるでしょ。でも向こうからも見えるらしいですよ」
ガハクは「あゝ あそこがそうですか」と静かに眺めていた。 転院する時も救急車で慎重に運ばれたので、病院の構造はもちろん、ゴージャスなホテルのロビーのようなガラス張りの玄関も、広大な庭の景観も一度も見ることもなく出て来たのだった。ガハクにとってそこは、ガーガー耳元で唸る機械音とゴーゴー酸素が流れ込む音に囲まれた恐ろしい場所だった。

 廊下の端から端までは50メートル。往復したので100メートルを歩行器につかまりながらゆっくり歩き切った。酸素の数値も安定していたし、苦しくもない様子だった。まっすぐに背中が伸びて姿勢も良かった。背が高く見えるのは痩せたからだな。後で聞けば、ふわふわと空中を歩いているような心許ない感じだったそうだ。25日ぶりに歩いたことになる。

いちばん気になっていたトイレも大、小とも出せたことが嬉しかった。人間というのは、美味しいものを食べて、消化して、排泄できて、元気が漲るんだな。手にピンク色が戻って来た。力が宿って来たという証拠だ。(K)


2020年2月25日火曜日

アトリエの畑

雪で潰されぬように下ろしてあったネットに潜って、支柱を立て直した。ぱんと張ったネットの中は、ビニールハウスじゃないのに何となくあったかい。パーッと明るく感じる。猪と猿避けなんだけど、何か他のものからも守られているような、そんな安心感があるんだな。

手前から、サヤエンドウ、キャベツ、ブロッコリーと並んでいる。いつの間にかずいぶん大きくなっていた。今年の春は、いつもより半月早く動き出している。ジャガイモは、すぐに植えても良さそうだ。

ガハクが戻って来るということが、日々の行動を活気付ける。今までやって来たことをまた続けても良いという許しをもらったような気がしてありがたいのだ。楽しさが違う。こんなに愉快なことをやっていたのかと、他人のことを見るような目で眺めている。ガハクもそうだと言っていたっけ。

救急車で運ばれてからずっと今朝まで、チューブを通して栄養を注入されていたガハクが、ついにチューブを外されて初めて食べたのが今日の昼ご飯だった。1時間かけてゆっくりと自分の手で口に持って行き、ぜんぶ綺麗に食べ切ったという。美味しかったそうだ。おかゆだったけれど、普通のご飯が良ければいつでも変更できるというから順調なんだな。というか、初日で完食できる人も珍しいらしい。

「病気にはなった方がいい」と今日も言っていた。生命力というのがどういうものなかの、与えられるものと失うものが見えるからだろう。また同じことを繰り返すのを止めるチャンスを与えられたということだ。二度と繰り返したくない事、二度と戻りたくない場所がある。ここに生きていて良かったねと何度もお互いの命を確認しながら前に進むんだ。(K)


2020年2月24日月曜日

筋肉の反応

毎日ガハクと強く握手をする。左手にも力が戻って来た。私と同じくらいに強く握り返して来てぜんぜん加減しなくてもよくなった。数日中にガハクの方が強くなって、私の手が押し返されて痛いくらいになるだろう。脚は細いが、揉んでいてもぷんと膨らんで張った感じが出て来た。これが筋肉というものなんだなと手応えを感じる。生きているものの活力は内側から押し返して来る弾力として感じ取れる。これが肩や腕にまで及んで繋がれば、体幹がしっかりするいうことだ。

連休が明ける明日からいよいよ本格的なリハビリが始まる。食事のトレーニングも入って来る。いつトイレに行けるのかが気になって来たガハクは、今日看護師さんにいろいろ質問していた。出したいときにちゃんと出るかどうか、いつ介助を頼んだらいいだろうかとか。オムツの吸収力だって知らないんだから。全てが初めてのことばかりだもの。

「病気にはなってみた方がいいね」としみじみと言うガハク。

夕方、庭の小松菜を摘んで来てポタージュスープに入れた。緑が美味しい。畑もまた始めよう。春がいつもより早くやって来た。(K)


風が生まれるところ

器物的にそれなりに作られたものからは匂いは立ち昇らない。写実的にそれらしく作られたものの周りの空気は冷たく止まっている。生きたものから湧き立つ匂いが発散華になって風を起こすのだ。

手は花。生き返ったばかりのガハクの手はまだ白いけれど、両手で包んで温めたらぽーっとピンク色に染まった。毎日強く握手している。だんだん握り返す力が私を超えつつある。手がこの人の活動の中心だということだ。最初に手から回復が始まったのは、ずっと手を使って来た人だから、すぐに思い出したのだろう。

神に「風が生まれる場所をお前は知っているか」と聞かれてヨブは答えられなかったが、今の私なら、あなたの手からと言うだろう。(K)


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