2019年8月17日土曜日

形が歌うとき

やっと形が歌い始めた。今夜は肩の後ろ側まで見えたので、あっちを彫ったりこっちを削ったりと忙しかった。説明しようとしないこと。他人を説得するのはもうやめた。いいものを作ろうとしなくてもいいんだ。素敵なものができるに決まっている。見せることを前提にしなくてもいいんだ。すでに見られている。私の目とガハクの目とトワンの目、善良な目のことだ。悪意ある目を寄せ付けない力を持とう。(K)


2019年8月16日金曜日

無理難題

これは芸術だがあれは芸術ではない…う〜ん…
え〜っと、僕の絵は芸術だよね、え?違う?う〜ん…
「芸術じゃなくてもかまやしねえよ好きな絵を描くだけだ、ふん!」
自分を困らせてやろうと今日は思った。それで青を次々と適当に置いてみた。それをどう絵としてまとめるのか?自分に課題を出してやろうと思った。 (画)


2019年8月15日木曜日

人は見たいものを見せられるのだ

映画『ゆきゆきて神軍』の裏話を聞いていたら、昨夜見えていたものが色褪せて行った。映されていたものは作られていたもので、予め操作され意図されたものが介入していた。演技的で露出狂的な人物だというのは映画の中にも写り込んでいて分かってはいたけれど、その後の彼の生き様を知ったらガッカリした。世間は名声を渇望している。だから名声を得た者には容赦がない。恥部を探り当て暴き出し、頭がいい奴がそれを売り物にする。

だから本当に美しいものは今の世の中には現れないだろう。隠され続けなければ世間の暴力から守れないからだ。世間が匿名で振るっている暴力に比べたら、奥崎謙三の激昂は純真に見える。彼の宗教観は聖書を読み込んだことが軸になっているのだそうだ。万軍の主を後ろ盾にして皇軍に単独で挑んだ元気な子が、青い馬に跨って荒野を駆け回っている。そんな想像をしている深夜である。(K)


2019年8月14日水曜日

異次元への誘い

絵に使われる色になんの制限もない。色調の統一とか調和とか異化でもなんでもござれだ。人に理解されたいとか褒められたいとか市場価値とか…そういう要求がなければ。
しかし自由というのは実に不自由なものだ。何をしてもいいというのは何をしたらいいのか分からないに繋がる。だから「自由」を恐れて本能的に規則を作り出そうとする。自分で作った規則に準ずるなら「自由」の範疇ではないかとも思える。しかしそれが始まりで終わりの「縛り」なんだよね。
今この「青」が気になっている。形にならない。空間を特定しにくい。
違和感のある色を頼りに異次元の空間にアプローチできるかもしれない。(画)


2019年8月13日火曜日

立ち位置が決まった

今日も暑い日中を避けて涼しくなってからアトリエに出かけた。畑に水やりをしていたら、イノシシの子供が2匹現れた。私が畑からひょいと顔を出したら、びっくりしたような顔をして慌てて逃げて行ったけれど、少し遠ざかっただけで近くの野原で遊んでいる。人は誰も外に出ていない。ここは無人島か?

内なる人が光り始めると、外なる人も明るくなる。彫りながら分かったことだ。(K)


2019年8月12日月曜日

ボクハ「うちゅーじんだ」

「アートとはアウトサイダーから見たこの世界のイメージを提供すること、いわば宇宙人から見た地球」(宮台真司)という言葉に驚いた。「宇宙人」って自分の表現として十数年前に僕がたどり着いた視点に過ぎないはずなのに、原則だったの?と。
記憶を辿れば絵の参考に買った荒俣宏の「世界大博物図鑑」。その中にあったいくつかの絵に惹きつけられた。特に大航海時代の異国見聞による博物図(人から伝え聞いただけで描かれた絵)。正確さにおいては甚だ怪しい代物なのに、いやそれだからこそか、写真のようなリアルな絵より数段ユニークで面白いと気づいた。
直感的にアンリルソーの絵に連なるある種のリアルさの正当性がここにあるし、その視点のユニークさはまさに「宇宙人」と思ったのだ。
今ではいつも自分の中にいる「宇宙人」を意識しないでは絵を描けない。「知っていること」を忘れて「知らない」からこそ描けるもの、理解することより誤解を深く見つめる…完全な愛の視点を獲得すること。(画)

2019年8月11日日曜日

太い首

太く強靭な首。その横に肩がはまった。胸の膨らみは鳩のようなのがいい。髪の毛は線彫り。何でもないことを一つ一つ決めていく。ウェストがポイントだと気が付いた。キュッと絞って構わないんだな。素朴過ぎても野暮ったい。美しいと思うのは新しい発見があるからだ。誰も見たことのない人を彫ろう。降りて来るものに忠実に、そして大胆に。(K)


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