2019年11月23日土曜日

翼を広げて

翼を腕まで広げた。襟元から覗く肋骨の起伏は、山の上を流れて行く白い雲のようだと思いながら彫った。いつか見たものが、彫刻の中にふいに現れる。善いものは忘れていてもまた戻ってくる。夜になっても降り続いているこの雨は音がしない静かな小さな粒だ。(K)


描くものがなくなるまで

消えたと思った人がまた現れさらに人が増えて来た。どこまで増やせるか試してみよう。
イメージの定着に必要なのは人がよく言う「筆力」とやらではなく自由度なのだ。頭でなのか心でなのか「見ている」ものを描くのではなく、絵の中に「見出す」自由さだ。必要性でもなければ必然でもない。主題に適っているかでもない。もしかしたら行きがかりかもしれない。とにかく描くものがもうこれ以上ないと思えるまで描く。(画)


2019年11月22日金曜日

猪の襲撃

野原にジャガイモを適当に埋めておくだけでよかったのは30年前。数年したら猪が現れるようになったので、トタン板を巡らした。でも棒っ杭で挟んでおくだけで十分だった。今思えば、あの頃はまだ長閑だった。

今年は台風の夜に猪にごっそりカボチャを盗られて、それからは度々やって来るようになった。簡単にうまいものにあり付く方法を覚えたのだろう。安易な生活に浸っている人々のことを重ね合わせてさすがに今夜はげんなりした。今日の襲撃がこたえたのだ。白菜が全滅。綺麗に洗って食べるからまあいいんだけれど。

張り付いていた翼がだんだん離れて胸が空に見えて来た。青い空までもう少しだ。(K)


2019年11月21日木曜日

大壁画

トワンが光っている。この方がいい。可愛くなった。ついでに後ろの人物を消した。この方がいい。曖昧でいいからといっても要らないものは要らない。そうしたら群像全体がスカスカしてきた。集合体として描いて来たからこれは方向を間違えたか…いやそうではなくこの状態から次に何が出るか何を出していくかを考えた方がいいだろう。それにしてもこれだと完成までにまだまだ時間がかかりそうだ。
モネの睡蓮の絵が新聞紙に載ってた。あの大きな壁画を描いたのは彼が80歳を過ぎてからの4年間だということだ。ガハクの13年後。あるのかないのか遠いのか近いのか。(画)


2019年11月20日水曜日

花の底


掌をそっと彫っている。そこは重い石の底面だから動かす時もそっとやらないと指が欠けそうだ。それでも指を花びらのように彫れそうに思えて来たから、今夜は最高な気分。

自分が思うように好きなように彫っていいのだと分かっていても、実際にやれるようになるまでには色んなものが剥奪されねばならなかった。彫り直してすっかり変わったこの彫刻のいちばん美しい場所がここ、花の底、光が集まる場所だ。(K)




2019年11月19日火曜日

ぼんやりした絵

写実は勿論のこと、抽象とか象徴とかにしたくない。寓話性の強い絵を描くべきかと思った時もあったが今は特に思わない。と言うよりも何かの観念とか思想とか言葉が先立つような絵を描きたくないのだ。
イメージに始まってイメージに終わる。情緒や感情が生まれてもそれが形をなさないまま、そんなぼんやりした宙ぶらりんの状態の視線にいつまでも耐えうる、そんな絵を描きたい。(画)





2019年11月18日月曜日

ここ彫れワンワン

足の裏が彫り難かったけれど、 ヤスリと砥石で少しずつ削ってなんとか浮かせた。あとは、手のひらが花びらのようになればいいのだけれど。この子の空間がだいぶ広くなった。窪地の底にノミの角を当てて、細い線を刻もう。柔らかな陰影を楽しみながら、ずっとここで遊んでいてもいいのだという覚悟をもってこの彫刻に付き合うのだ。私の時間などなんでもない。ずっと向こうまで広がる景色を見つめている。(K)


2019年11月17日日曜日

絵がイメージを求める

地面の色を塗り替えた。今までの色がひどく褪せて見えた。この方がずっといい。画面全体にもっと思い切った治療が必要だ。
自己のニュアンスに徹底的にこだわるべしと思って来たが、毎日少しずつ、気づかぬくらいに少しずつ真っ直ぐな道から逸らされ、それが続きいつの間にか思わぬ脇道に連れ去られてしまうらしい。覚醒した意識の持続はかくも難しいものなのか。
今日一つ分かった。大事なのは自分のイメージを絵に定着させる事ではない。自分は常に変節堕落するものだから。そうではなく、この一枚の絵が要求するイメージを正確に受け取りそれを表現することにあると。(画)



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