2019年5月18日土曜日

挨拶のできる子

今から40年以上も前のこと、描いた絵を額縁に入れようとしていたら、
「まだそんなことをしているのか、額装されている絵は作品と俺は認めないからな」と言われた。当時絵を額装することは時代の流行にそぐわなかったのだ。それは単なる流行に過ぎなかった。今となってみれば絵の額装は芸術の本質とはなんら関わりのないことだという当たり前の事だけが残った。
でもそれなら額装をしている俺は何をしているのか、しかも妻とその作り方についての多くの議論と試行錯誤の作業の時間と労力を考えるに。改めてそれを彼女に問うたら一言の元、
「ちゃんと挨拶のできる子にするのよ」って。
それにしても今回ほど寸法の合ったのを製作できたのは初めてだし、まだ組んだだけの荒木の仮縁でしかないのに絵がしっかりして見える。そうか、自分の子が人前に出てしっかり挨拶しているのを見るのは親としても嬉しいに違いないわけだ。(画)


2019年5月17日金曜日

まずは足元から

アイデアが浮かんで来ると、楽しくなって他のことはすっかり忘れてしまう。そういう時はぜんぜん疲れない。 新しい形が見えて来ると、それを早く実現したくて休みなく彫っている。そういう時は眠くはならない。

彫刻のダイナミズムは凸面の連続だけではないんだ。隣り合う凹面の境目にできる線の繊細な陰影をうまく使えれば、石の量や厚みがなくてもダイナミックなストーリーは勝手に生まれて来る。これはレリーフで学んだことだ。線の切れ味で形の美しさは決まる。(K)


2019年5月16日木曜日

描きわけ

自然の中の緑の描きわけは実に難しい。そして緑色は絵の中であまり冴えないのだ。僕の技術では緑のバリエーションの描き分けは容易ではない。
しかし色のニュアンスに困った時は幼児の使う色を思い出すことにしている。彼らが緑を描きわけようとしたらどんな色を使うだろう。彼らの色の使い分けには大人のような邪心がない分うんと自由だ。
本来、色を使うことは絵を描く喜びの大部分を占めているはずだ。だから「描きわけ」などという姑息な目的を持つこと自体がその喜びの一部をなくしてしまうのだろう。(画)


2019年5月15日水曜日

いい仕事ができる時

昨日はすっかり疲れてしまって何でもないことで不愉快になった。気が緩むとすぐに鬼が出て来る。もうそんな自分を許す訳にはいかない。タイムリミットは過ぎたのだから。

疲れていても病んでいても意識がくっきりと明瞭に捉えられる人がいる。そういう人になりたい。なれるだろうかなどと考えている余裕はない。もう猶予は与えられていないのだ。

方法は一つ。1日の始まりを好きなことから始めることだ。今朝は宅配のおじさんの声に起こされた。あの人はいい人だ。いい人というのはいい人になろうとしている人のことを言う。自分はいい人だと思っている人にいい人はいない。自分に不満を持っている人はいい人だ。動いているからだ。少しずつ明るい方へと、暖かい方へと向かっている。

土をいじり、野菜を作り、その合間に石を彫るくらいがちょうどいいのだろう。頑張ると碌なことはない。(K)


2019年5月14日火曜日

自己肯定

絵の画題は多くはないがバリエーションならたくさんある。時間があればもう一度描いてみたいモチーフも多い。それは完成と呼ぶにはあまりにも未熟で拙劣だということだし、完成させるだけのスキルや明確なイメージに欠けているからだ。しかしおかげでモチーフに不足することはないだろう。いつまでも同じ題材を追いかけるだけで一生を過ごせそうだ。常に自己批判しているようで実は自己肯定にどっぷり浸かっているという訳だ。
今日も古い作品を手直しし始めたところ。これはこれで気に入ってはいるものの。(画)

2019年5月13日月曜日

パルテノン神殿

手と手の間に薄皮のごとく残してあった石の隔壁を取り除いたら、パルテノン神殿が突如現れたような意識に捉えられた。間を風が抜けるだけでこんなにも形が強くなるものか。やってみなければ分からなかったことだ。

明日は鞴場で火を起こして よく切れる鑿を作ろう。これから先は慎重に彫らねばならない。機械は使わない。霊感が途切れるからね。

今夜は『ストーカー』のラストシーンを観た。英語の字幕だから半分しか読み取れなかったけれど、彼の孤独と絶望、壁にぎっしり並んだ本、妻の変貌、娘の超能力、黒犬メフィスト、全てが揃っていた。(K)



2019年5月12日日曜日

キャバレーからデューラーへ

絵を始めた頃、教師にきみの色はまるで場末のキャバレーみたいだと言われた、絵の色になってないと。そう言われてもどうしたらいいか分からなかった。ある時考えた訳ではないが灰色で描いた絵をずいぶん褒められた。それからグレーの絵ばかり描いていた。灰色に自分の色味を発見したつもりになっていった。でも本当はうんと強い色で描きたかった。真っ赤とか真っ青とか原色で激しい色を…。
エミールノルデのような色を使えたら最高だと今でも思うが、残念ながら僕はノルデではない。
ゴッホのような激しいタッチで描きたいと思うが、残念ながら僕はゴッホではない。
ルドンのような神秘的な絵を描きたいと思うが、残念ながら僕はルドンではない。
自己のニュアンスに忠実に描いていったらデューラーのようになれないかととんでもない望みを抱いている。(画)

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