2019年12月14日土曜日

緑の楽園

袴の線、帯の線、指の線、尾羽の線、あらゆる線がこの子の背後で重なり交差している。そういう景色を薄肉彫りでやっている。虹のように見えて来たり、川の流れのようであったりもするけれど、何かになりそうになるとすぐに引き返してきっちり刻むようにしている。その方が嘘が混じらずに美しいところに行けるようだ。必然的なものは待つしかない。新しい形が現れるまで、彫って、削って、探るのだ。

中村哲医師が土地の人たちと作った緑の園がとても美しいのに驚いた。水が子供を守る、水が人の健康を作る、だから水を引こうというところまで辿り着いたのだそうだ。

「私が死ななければあなたたちのところに来ることが出来ない」という意味が分かった。水を引け!(K)


2019年12月13日金曜日

ジプシー

ジェリコーは出世を夢見てイギリスに渡った。セザンヌはドラクロアと同じだけの名声を求めてルーブルに作品を買い取らせた。ゴーギャンは計算高い男でゴッホとの共同生活も金に困っていたからだった。多くの優れた画家にこういう性格の歪があるのはよく知られている。彼らの作品の素晴らしさと低劣な思想とのギャップをどう見たらいいのだろう?宮沢賢治は昼休みにテニスに興じている教師なんかに教わる事は何も無い、と批判した。でも実際にはテニスと教師の指導技量とは何の関係もない。
もしかしたら僕らが彼らの中に見ているものは己自身の低さでしかなくて、その奥にある大きな愛や真実や美に気づかないだけかもしれない。
一方でレイシズムとか原理主義とか優生思想とかいうのは無知や無能や無教養でしかない。そんな人達の考えや作品など全然無視して構わないのだ。

群像の左側の人物たち。世界の外れものたち。(画)


2019年12月12日木曜日

退屈しない困難

何かをする時に面倒臭いと思うことがなくなって来た。誰かに何かをしてやったときの恩着せがましい気持ちも湧き起こらなくなった。自分は損をしているとか、得をしたということに一々揺れ動かされる機会が減ったのは良いことだ。

足の間や脇の下の、狭くて奥まった場所に砥石を当てがっていると、バイオリンのトリルの練習を思い出す。指を上げたり下げたり間怠っこしいったらありゃしないのだけど、それでも続けていると、それなりに出来るようになって来る。誰に聴かせるでもない音。誰に見せるでもない形。困難なことをやっている時はぜんぜん退屈しないことに気がついた。そういう時って、自分はこの困難を超えられと信じているようなのだ。苦しいのだけど、楽しさがある。(K)


2019年12月11日水曜日

独創

背景の色を変え人物の位置と顔を決めようとしている。思えばこの人たち、描き出した頃に比べて寸法がずっと小さくなっている。何度も描き直していくと小さく締まって来るというのはよくあることだが、これは度が過ぎる。まあそれでもその方がいい、むしろ適性な大きさに近づいているのだ。
ジャコメッティがある日突然粘土で作る人物像が制作しているうちに小さく小さくなり、終いにはヘラの一突きで壊れて消えてしまうという話は有名だ。同じように絵でも何度も何度も描き直し遂に画面上には何もなくなってしまったというのも。
そういう人がいてくれたおかげで形式からの自由と孤立を恐れない勇気を貰えたのはおそらく僕だけではあるまい。それが独創に繋がらないとしても。(画)


2019年12月10日火曜日

翼か手か、どっちを選ぶ?

胸が茜色の空に見えるようにと、翼の輪郭の周りをそっとそいで回った。胸に張り付いていた翼がやっと離れて少し動き出したように思えた。

彫りながら考えていたのは、翼か手のどちらかを選ばなければならないとしたら、どっちにするだろうと。鳥は手の代わりに嘴を使う。嘴で巣も作るし、子供の世話もする。翼で覆って守っている。空も飛べる。遠くまで行ける。

でも手はいろんなことをする。石を彫ったり絵を書いたりするのは、空を飛ぶことと等しい。心の中に水を引く。荒れた大地を耕すように、崩れても壊れても無視されても何度も何度もやり直して築き直しているんだ。 だから太古の昔から美しいものだけが繋がっている。(K)


2019年12月9日月曜日

異次元の画家

数十年前、自分の絵に迷っていた頃この図に出会ってこれだ!と思った。
*ルナール⦅モルッカ諸島魚類彩色図鑑⦆(1718-19)から転載された図像に驚いた。今まで見たことのない物象を見たときの画家の驚きと感動、そしてそれを伝えようとする熱意がそこにあった。まるで子供のような無垢なものの捉え方が異次元世界の存在を表現している。
赤ん坊が生まれて初めてものを見た時の驚きは、まるで宇宙人が初めて地球上の事物を見た時のような違和感をも伴っている。しかし同時に大きな神秘性を感じ畏敬の念さえ持つに至る。
そんな風にものを描けないかと思うようになった。赤ん坊のような無垢な心、宇宙人のような異次元感で絵に向かえられればと。そんな不可能な目標を常に念頭に置いて絵を描こうとしている。だから知るのを止め見るのを止めればと思ったのだった。益々年齢を経た地球人でしかない画家にとっては到底不可能な領域でしかないのではあるが。
*荒俣宏 世界大博物図鑑②「魚類」より



2019年12月8日日曜日

ポスト真実

真実に耐えられないからって、それに置き換わるものを求めて、ぼんやりとした曖昧なままでいられるように、決定と決断を先送りにして暫定的価値基準を捏ね上げる若い人たちがいるそうだ。そういう若者のことをヘタレとか情弱とか言われるのだけれど。何かの躓きをキッカケにして引きこもってしまった人を家族が匿うようにして暮らしている様子が外から見ても感じられる家がある。でもどうしようもない。そういう家の前に立って「出ておいでよ」と叫ぶわけにもいかないし。

異国の地で水を引き荒地を復活させた人がいる。誰が見ても彼がやったことは善だと思うだろう。だのに、殺された。政治的な争いに巻き込まれてしまった。広告塔のように使われると引き落とそうとする者らが出て来る。共通の神とは、一切の悪とは関係のないところにあって、善と美と真理が一致したときに立ち現れる。(K)


よく見られている記事