2020年2月15日土曜日

ガハクの黒いノートから

二人ともレザー張りの黒いノートをずっと使っている。30の頃にオランダ人の友人にもらったのがきっかけだ。画室の棚から一つ引っ張り出してパラッとめくったら、トワンと夜の散歩に出た時のシーンが出て来た。あの頃は昼と夜の2度散歩してたんだったな、若くて元気なトワンの為に。

昨日の面会の時にガハクがあまりにもしょげていたので、ガハクが今までやって来たことを思い出させようと いろいろ持っていくことにした。黒いノートもその一つ。咲き始めた福寿草もデジカメで撮った。メガネはしばらくは使わないと言っていたけれど、カメラの再生画像を見てもらう為にバックに入れて出かけた。

そうしたら、ガハクはしっかり起きて待っていた。中から声が聞こえる。「奥様がいらっしゃいましたよ」「はい、分かります」って。目に力があったのでホッとした。昨日とはぜんぜん違って顔から光が差して来るようにさえ思えた。しかも午後2時から部屋の引っ越しだという。やっとICUの緊急治療の領域から解放されることになった。ちょうど今日で2週間。 担当医の美しい女医さんが通りがかって「酸素をだいぶ減らしています」とにこやかな声。回復への道を確実に進んでいるということだ。

「この息苦しさはいつになったら取れるんでしょうか?」と聞くガハクに、「もうほとんどご自分で呼吸できていますから、もう少しでしょう」と新しく担当してくれる看護師さんが励ましてくれた。

メモ帳を見たら、走り書きの文字に混じって絵が描かれてあった。「字よりも絵の方が難しいね。想念というのは良くない。想念に囚われるくらいなら字を書いていた方が良いよ。でも絵が一番良いと分かった」というのが、ガハクが戻って来た証だ。

帰り際「毎日来てね」 と言われた。ずっと毎日来てるのよと答えた。「しっかり食べてね」とも言われた。あちこちから私へのエールが届く。ガハクからも。(K)





2020年2月14日金曜日

飛翔の角度

ガハクの病気は治って来たけれど、今度はどうやって力を出すのかが問題になって来た。すっかり痩せ細った体はちょっと動くだけで辛そうだ。飲んだり食べたり出来ればエネルギーも蓄えられるのだろうが、まだ喉に通らない。点滴の管はだんだん少なくなっている。酸素も要らないほど呼吸が楽になるには、もう少し時間がかかるようだ。昨日より元気がなくなっている気がすると、気持ちが塞いでがっかりした顔をする。今日もそうだった。肩を揉んでいるうちに目がぱっちりと開いて来る。意欲というのは内と外と同時に湧き上がるものが必要なんじゃないかなあ。「なんか喋ってよ」と自分より私に話させようとするのは、聞いている方が楽だからだろう。もっと話をしないとと思うけれど、30分の面会時間じゃ意識が奮い立つには短過ぎる。今日は帰りの山間をハンドルをきゅーっと回して、もう一度面会に行こうかと思ったくらい寂しかった。側にいればもっと明るい時間が過ごせるだろうに。でも焦らないで行こう。

公会堂のお掃除の日だったのだけど、病院に早く行きたいので 、皆が集合する前にいつも私がやっているところだけ綺麗にして、メモをドアに貼り付けておいた。「窓ガラスの掃除はやりました。用事があるのでお先に失礼しますK」と。
 もうとっくに解散しているだろうと、公会堂の横を過ぎて家に向かう坂にハンドルを切った時、声がかかった。「まあKさん!どうしたの?みんな心配しているよ。まだお茶を飲んでいるから話しに行ってあげて」ほとんどの人が私より年上の老婆だけれど、一斉に固唾を飲んで、ガハクが運び込まれた時の顛末に耳を傾けている。そして話終わると一斉に「よかったよかった」の合唱になった。話をする。正直に話す。思ったことをあったことを言葉にするってこんなに元気になるものなんだなあと、ボイスの言葉を改めて認識した。

「君の傷みをさらけ出せ。そうしたら元気になれる」ヨゼフ・ボイス (K)


2020年2月13日木曜日

とても綺麗になった肺

ガハクに面会している最中に(すらりとした若い女医さん)担当医がやって来て、「肺がとても綺麗になりました。今、一般病棟に移れるように手配しています。(危機を脱したから)肺の専門のところの方が良いでしょう」と言われて、嬉しくて何度もお辞儀をした。なんとお礼を言ったものか分からずいろいろ言うのだけど、うまく喋れなくて、結局口から出て来た言葉は「ほんとうに有難く思っております」だと。使ったこともない皇室みたいな言い回しだなあと内心思いながらも、仕方がない。『その時何を言おうかと考えて用意しておく必要はない。言うべき言葉はその時与えられる』と聖書に書かれてあったっけ。すっかり諦めてまたお辞儀をした。

ぼんやりウンザリぐったりしているガハクを促して、何か書きなさいよと、鉛筆と白いメモ用紙をクリップで留めたものを渡した。自分の生年月日を書き始めた。続けて入院した日を書いて、「僕はどうしてこうなったの?」と聞いて来た。どうも救急車で運ばれたことも、その後の数日のことも何も覚えていないようなのだ。肺がすっかり萎んで息ができずに頭が混沌としていたのだろう。この12日間の出来事をメモし終わって、「よく助かったねえ」と言う。そうなのよ、もうこれは奇跡なのよと答えた。

 手を握ると普通に握り返して来て、ひ弱さはない。ただまだ食べたり飲んだり出来ないし、脚に力が入らないからフラフラするようだ。ベッドの上では体勢を自分で変えることが出来るようになった。もう少しだ。毎日確実に回復している。気力もあるが、ガハク流だ。もうICUの異常空間に嫌気が差して来ている。そこは死にそうな人たちばかりが集められている部屋で、幻想に向かって喋り続ける人やら、心肺蘇生しているスタッフの慌ただしい動きに深夜眠れなかったりもする。

ガハクは生き返ってだんだん意識が現世に戻って来たけれど、向こうに引っ張られて死にそうな人たちの姿は重く暗く意識に堪えるのだろう。実際にベッドから上半身を起こしている人はガハクの他には誰もいない。そういうだだっ広い部屋なのだ。

室内ばきをベッド脇の床に置いて来た。まだ下着やタオルや石鹸は要らないと返された。病院のパジャマとおむつで過ごしている。元気になって行く苦痛というのがあることに気が付いた。生きることは辛いのだ。だから怠かったりぼんやりしたりするのだ。そういうことが分かったから、今日は愛おしい気持ちになった。髭を剃ってやって、あとはずっと右肩を揉んでいた。なんで右肩だけが凝るのだろう?

飛翔する天使の尾羽も彫り直している。(K)


2020年2月12日水曜日

鳥の脚

飛んでいる時の小鳥の脚は羽毛に包まれてはっきり見えないけれど、大きな鳥だとよく分かる。自転車で川沿いの道を走っていると、慌てて飛び立つアオサギがゆっくり飛翔する姿は優雅だ。長い脚を上手に折りたたんでだんだん遠ざかっていく。あんなに大きくて美しい鳥が人間のすぐそばに生きていて、よく平気でいられるなあと思う。それほど人は残忍だ。利己的だ。差別的だ。でもときどき驚くほど善良な人が現れることがある。あれは運命を引き受けたからなんだろうか。使命を帯びた人の激しく厳しい活動を見ると感動する。名もない人にもきっといるはずだ。見えないところで誠実に生きている人は静かに無駄なく確実に歩を進めているはずだ。

今日のガハクは今までで一番元気なのに、今までで一番弱気だった。「ずっといて」と言われたら、帰ろうにも帰れない。 リハビリまで見学して、髭も剃ってあげて、歯磨きを自分でやるように促して眺めていた。ずっと車に置きっぱなしだった入院用品をやっと看護師に預けることもできた。だって、昨日まではそんな日常ができるなんてレベルじゃなかったんだもの。室内用の履物を用意するように言われたので、帰り道にドラッグストアで買った。ウェットティシュも箱入りで使い易いのを買った。なんか、甘えん坊のガハクである。

思い切って天使の足を後ろに引かせて、飛翔しているように彫り直した。細くなって、鳥らしくなった。ガハクの脚もほっそりと鳥のようだ。これからだんだんガハクは太く強くなる。わたしには見えるんだ未来が♪(K)


2020年2月11日火曜日

真理を蝕むもの

ICU区画の自動扉は中からしか開かないようになっていて、二度の検問がある。二つ目の扉が開いてすぐがガハクのベッド。今日は上体がぐっと起き上がっていて顔がよく見えた。ぱっと気持ちが晴れた。声も大きかった。

昨夜読んだ浜垣氏のブログ記事について話すと、ガハクがノッて来たのには内心驚いた。頭がはっきりして来たんだ。とても嬉しかった。賢治が上京した頃のことやら、花巻に帰ると高等遊民になり下がったと言われもしたそうだ。そんな時期に書かれた『アメニモマケズ』のことをガハクも注目していて、赤鉛筆で薄く書かれた『行ッテ』という文字も知っていた。胸を病むということは、真理を誤謬が蝕むということだ。賢治もさぞ苦しかったことだろう。

 世間のニュースについて聞かれたので、コロナウィルスの話題ばっかりだよと言うと、「チャンバラ隊は政権とった?」と時空をすっ飛ばすところ辺りにまだ夢が混じっている。相変わらず桜追及が続いているし、それどころか、検察トップの人事に官邸が介入しているよと言うと、「国会議員は権力者だから検察は捕まえやしないよ。特に法務大臣とか。たとえ首相を下りても」と、相変わらずガハクはクールだ。

「でも僕にはそんなニュースより生コンクリートを飲み込んだ人のことがずっと気持ち悪い」と言う。何のことかと思ったら、昨日途切れ途切れに聞かされた話の続きだった。「夢じゃないと思うよ。みんな大騒ぎだったから」という。ガハクがつい先日まで入っていた一番奥の部屋でその人は亡くなったそうだ。それは事件なの、自殺なのと聞いたら、自分でやったらしいとのこと。自分を痛めつけるとしてもやり方が惨すぎる。どういう悪霊が付いたのだろうか。

そんな話をしながら、ガハクの肩をずっと揉んでいた。ずいぶん楽になったそうだ。生きている人に触れている喜びで全く疲れなかった。帰り際、さっと上がった手が軽くて明るかった。(K)


2020年2月10日月曜日

飛び立つ天使

今朝は8時にアトリエに着いた。こんなに早くから石を彫るなんて、10年ぶりくらいか。ガハクが死にそうになったことが気持ちに変化をもたらした。四面楚歌の孤独な仕事場でこのすっきりとした気分。自分でも驚いている。学生の頃は毎朝誰よりもいちばん早く彫り始めていたのに、だんだん気持ちまでもが追い詰められて、梟みたいになっていたんだな。

今日のガハクはげんなりした顔をしていた。焦る気持ちもあるのだろう。ちっとも良くならないと不満そうだった。それでも両手は口元まで上がるようになったし、自分で椅子に座ることも出来たという。ケーキとジェルの飲み物を摂ったそうだ。でも「ぜんぜん美味しくない。バナナかパンの方がよっぽど美味い」とのこと。リハビリで肩を痛めて湿布してもらったというから、ガハクだけじゃない、周りも本気だ。呼吸が安定して来てよく喋る。話せるようになると、医療スタッフの態度も変わって来るのだそうな。「物のように雑に扱われていたのに、今はみんな優しくて親切だよ。だからいっぱい話すようにしている。反応が面白いから」ってさ♪

天使の脚を思い切り削って風に乗せた。飛翔!(K)


2020年2月9日日曜日

額の角度

ガハクが緊急入院して今日で1週間経った。足のむくみがすっかり無くなって、いつもの大きさに戻っていた。酸素マスクが外されて、鼻に装着されたパイプで酸素を送っていた。ロスがないので効率的に吸収されるとのこと。確かにモニターの数字が98から99と、いい数字を出していた。昨日までのマスク型では息苦しそうだったし数値も86まで下がっていてちょっと心配だったんだ。

痰をやっつける薬も鼻から注入。ずいぶん楽になったようで、ときどきうつらうつらするくらいに穏やかな顔。病気との戦いのレベルがずいぶん軽くなったのを感じた。水も少しなら飲んでも良いと。それに今日から食事も少量摂取するらしい。

意識が混濁して来ると変なものが現れると言う。霊が見えたのかと思ったら、キャラクターや政治家やイラストで描かれた人物だそうだ。
「一つ一つ消して行くとだんだん楽になるのだけれど、最後の一つがなかなか消えないと思ったら、マホガニーの本物の模様だったよ」というオチまで付いていた。

今日は額の角度を彫り直した。霊達は主の目を見つめ、主は彼らの額を眺められるそうだ。目には光。額にあるのは善への意志。(K)


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