2020年1月11日土曜日

トワンの足

背中ばかり彫っているとだんだん疲れて来るので、ちょっとトワンの足先を彫ってみた。久しぶりに見ると、自分の目が進んでいるのが分かった。彫り直せばもっと良くなりそうだ。完成したものなんて無い。止まってしまえば、そこで終わりだ。

また背中に戻ってさっきの続きを彫り始めた。そういうことの連続だ。(K)


2020年1月10日金曜日

よそよそしい

最近ネットでニュースをよく観る。例えば「桜…ヒアリング」は1回目からずっと今まで欠かさずに観ている。なぜ観続けているのか自分でもよく分かっていない。追及の結果真実のいくつかが明らかになるとは思えない。ダラダラと続く千日手将棋のようだ。
それなのに観続けているのは、人の顔なのかもしれない、官僚の顔、政治家の顔、その表情、仕草、話の調子、声、そういうものを観ている気がする。
今日は日本を脱獄した人の会見を観た。すごいスピードで話していた。やっぱりこれも顔かな、観ているのは。
ニュースには戦争になりそうでならないようだとか、既になっているとかもあった。人殺しの話、裁判、世間は騒がしい。時々目が回りそうになる。観ない方がいいのかもしれない。そんなものは他人に任せて好きな空間と思考の世界に遊んでいた方がいいのかもしれない。

「方舟」には苦労している。何だかよそよそしい感じだ。(画)


2020年1月9日木曜日

柔らかな翼

シャツの襟元の線を消したら翼がふわりと浮き上がった。直線的な硬い線を削って柔らかな形に変えている。背中を温かく包む翼だ。優しい形が出て来て嬉しい。今夜の月は卵のようだ。淡い白味に包まれた黄金の月は、くるりと赤い輪に囲まれて守られている。(K)


2020年1月8日水曜日

方舟の行方

スケッチを元にタブローの方舟を描き直した。描きながら潜水艦のことを考えていたらしい、方舟の上に広がる空は海中から見た水面にしたらどうだろうと思いついた。未だそうはなってない。
さて方舟は周囲を海に死の海に囲まれた時、どこへ行くつもりだったのか?世界全体が海だとすればどこへ行っても行かないのと同じだろう。結果から見れば空間に当てはなく時間にこそ目的地があったのだ。正確に言えば状態の変化を待つということだ。それなら我々と同じじゃないか。方舟こそ我らそのものだ。
という事で。(画)


2020年1月7日火曜日

透明な翼

久しぶりに太陽が高いうちにアトリへに向かった。自転車がポンポンとよく弾んでパンク修理が完璧にできていることを実感。

途中、道路が大きくカーブするところで自転車を止めた。陽射しに光った川が美しかったからだ。幾筋にも別れては、また合流しして流れて行く。写真に撮ろうとカメラを構えたら「カードが入っていません」だと。ただ重いだけの荷物をウェストバック戻して、じっと見つめて目の奥に写し込んだ。

着任したばかりのバキュームカーのおじさんが面白い。力が抜けていて爽やかだ。こういう人がたまにいる。相手に負担をかけないのが本当の自由なんだ。勝手に振る舞っているようなのが他人を楽にさせる。特別料金も消費税のおかげで少し値上がりしたが、仕方がない。前回の分もいっしょに精算。

今日は翼の存在を何とか出せないかと、ずっと背中ばかりをいじっていた。(K)


2020年1月6日月曜日

方舟

子供の頃に買ってもらったブリキ製のオモチャの潜水艦。大嫌いな風呂に入るように親が考えたことかもしれないが、よく遊んだ。ゼンマイで回るスクリューで進み舵を操作すれば蛇行もできた。水を溜めれば半分沈んだ状態で浮かせることもできた。
水に潜る潜水艦は水没事故に強いという逆説も気に入っている。船に乗るなら絶対潜水艦がいいと思える。海の底に潜ったままどこまでも行けるし外がどうなってるか知りたい時は潜望鏡で海上を見る。時々浮上して空を眺める。海の上の空気はいいし星も綺麗に見えるだろう。
どういうわけか潜水艦の映画にハズレはないそうだ。
創世記の方舟はもしかしたら人類初の潜水艦だったかもしれない。(画)

2020年1月5日日曜日

自分を削ぎ落とす

美しいものが必ず持っている清楚さ。例えば、宮沢賢治の書いた空や風には色があるし、ゲーテが生み出した魔の山ブロッケンにもカーンと響き渡る音がある。そういうものが無くなったものは皆しょんべん臭い。努力すると消えてしまう純真。だから子供に無理強いして絵を描かせたり楽器を練習させたりしてはいけないのだ。そういうことが長い間続けられて来たせいで、この世はすっかり冷ややかな感情と惨忍な行為で溢れかえってしまった。そういう世界から遠ざかるためなら、どんなに時間がかかっても、汚れや無駄や余計なものを削ぎ落とすために少しずつしか進まない労働に勤しもう。(K)


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