2019年3月23日土曜日

進化の中で

もう人生も終わりに差し掛かってやっと進化を遂げた。形を直すと内側から柔らかさが出て来る。どんどん彫り直して行くつもりだ。あと10年生きられたら進化の跡をはっきりと残すことが出来るだろう。とにかく分かったことは刻んでおこう。

トワンの目が白く曇っていたのに最期の頃になって急に澄んだのは、目があまり見えなくなっていたんじゃないか。 そういう気がして来た。ゆっくりと死に向かって行くとき、まわりの風景は夕暮れの中にいるように暗くぼんやりとしていくのかな。だから、最後の夜ガハクの布団に寝そべってパパの匂いに包まれてみたくなったのだ。

ゆうべ掛け布団を取り違えてしまったのを気付かずそのまま寝た。ガハクもぜんぜん気が付かなかったようだ。匂いが変わった。互いの体臭が消えた。(K)


展覧会

デナリコーヒーに定期便。家を出て店に着くまで車で1時間。ずいぶん近くなったものだ。
彫刻と油絵を数点入れ替えた。マスターと新企画である今度のわれわれの展覧会の目的から日取りや具体的なやり方の細部まで話し合った。
予定がそれなりに決まるとジワジワと高揚感が湧いてくる。自分が予期していない感情だった。いいことか悪いことか、若い頃に比べれば作品を見せることへの期待も不安もわずかなものでしかないはずなのに。
さてあと3ヶ月、どんな絵が描けるか楽しみだ。(画)



2019年3月22日金曜日

洗われた自意識

とうとう今日『K』とサインを刻んだ。昨夜はどこに彫ろうか迷ったのでやめておいたのだけど、それがかえって良かった。一晩の間に自意識が洗われたようだ。気持ちがすっきりして一気に彫れた。平ノミで少しずつ線彫りを深くして行く。カランダッシュの明るい青の2色とレモンイエローを軽く塗り込んで、最後に水で濡らした砥石で軽く磨いて完成。30年かかってやっと開花した『ちゅーりっぷ』を明日デナリに持って行く。

雲間から出て来たきれいな満月に、もうトワンともお母さんとも言わないで、ただ「お月さん」と呼びかけた。(K)


2019年3月21日木曜日

山菜と精霊

今度ショップに持って行く絵を選んだ。前より少しでも進歩していればいいがと、いくつかの絵を見比べてみたがそれほど変わってはいない。一枚を仕上げたら次の絵というのでなく、数枚を同時進行で描いて行くからそれも当然かもしれない。前より悪くなっていなければ良しとしよう。
それにしても仕上げるというのが苦手だ。仕上げなくてもいいと思えるからこそ気楽に描いていける。むしろ仕上げようなどと考えない方がいい。魔が入りやすいから。
今日山でフキノトウでも採ろうかとビニール袋をポケットに入れて行った。しかし結構高い所まで登ったがどこにも見当たらなかった。数日前にコンビニ袋を下げて降りて来た人に何度か会ったからあらかた採られてしまったのかもしれない。
帰ってから妻にそのことを言ったらフキノトウなら裏庭に出るからそれで充分ですよと言われた。
山菜などを目当てに山を歩くのはよくない、山菜を見つけたとしても決して精霊には会えないからな。(画)

2019年3月20日水曜日

仕上げの仕事

砂岩は磨いても光沢は出ない。表面の色合いもそれほど変わらないが、砥石の番数を上げて行くにつれて柔らかなすーっとした形が内側からじわじわと現れて来る。薄い皮が一枚むけた感じだ。

今夜一気に仕上げるつもりだったのだけれど、花びらのところまでで時間切れ。砥石の粉を洗い流した。まだ濡れているから濃いピンク色だが、花の先端はもう乾きかけて明るい色になっている。明日はKと刻もう。どこに入れるか思案中。(K)


2019年3月19日火曜日

気持ちのいい色

「絵は男性的なものだ、イメージを明瞭に表す為に毅然とした方法で描かねばいけない、途中で思いついたものを付け加えたり消したり迷うような女みたいな描き方はダメだ」(ボナールを好きという妻にピカソが言った言葉)
そうかもしれないけど、そうだとすると晩年のピカソを含め近代のほとんどの絵がダメということになりませんか?マチスは、絵の構成上最初塗った色を変えねばならないことはちょくちょくあると告白している。
画家の言葉は多くの場合自己弁護でしかなかったりする。
体にいいと言っても不味いものを食べるのは楽しくない。美味いと感じることにはしっかりと意味があるものだ。
気持ちのいい色にも意味がある。そういう色だけを使えたらいい、今は気持ちのいい色を見つけたいと思っている。(画)


2019年3月18日月曜日

話す手

話しているこの人の手は、花のように彫ればいいんだ!そうだ、チューリップのように可愛らしく。
 そう思って彫り始めたら二人の胸の間を埋めていた石の塊がスイスイ削れていく。いつの間にか奥まった暗がりまでノミが届くようになっている。技術が上がったか?意識が目覚めたのか?全部だろう。焦ることもなくなった。誰に頼まれてやっているわけじゃないし締め切りが迫っているということもない。デナリでの展覧会は七夕辺りにやろうと決めてはあるが、マスターが「ゆっくりやってください。うちはいつでもオッケー」だと言ってくださるのも頼もしい。『自由』とは熱意あるものに与えられるもの。生命力の別名だ。

向こう側の手もうっすら刻んだところで今夜は道具を置いた。外に出たら満天の星。なのに顔に冷たい粒が当たった。風花だ。(K)


2019年3月17日日曜日

映画館の火事

山や木や川を描くことが多いのは山里に暮らしているせいでもある。
僕が生まれ育った環境は全く違う。軒を接するように建物が立ち並び人通りの多い街場だった。
人々の話声、バイクや車の音、ガソリンの匂い、食堂の料理の匂い、揚げ物の匂い、魚の匂い、隣家の夕餉の支度の音、パチンコ屋、毎日のように聞こえる常磐津の鼓や三味線の音が聞こえたりしていた。
通りを挟んで向かえに映画館の裏口があり、隣家のよしみでちょくちょく無料で映画を見せてもらっていた。
ある日そこから火が出て消防車が来る大騒ぎになった。
大勢の見物人の肩越しに僕も見たが、木ではなくコンクリートの建物なのに火が出ていたのが子供心に不思議な気がしたものだ。モクモクと出ていた煙は白と灰色だったが昼間のせいか火はよく見えず時たま黄色い光がチラチラしていたのを覚えている。
火が収まった跡、壁は黒く相当汚くなったが建物自体は崩れたりもせず黒いススもそのままで、その後も営業は続いていたから大した被害ではなかったのかもしれない。
この絵を描いていると幼い頃の街の様子が蘇る。(画)

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