2019年2月9日土曜日

命の形としての死

今僕は、トワンとよく歩いた山道を歩きながら彼の姿をあちこちに出現させることが容易にできる。
想像力を使えば簡単だ。それが錯覚でないのは、彼が死んだという事実を僕が知っているからだ。彼が現実に生きていれば錯覚でしかなくなる。
(しかし、死んだというその事実も僕の記憶でしかないじゃないか?)
要するに僕は僕の記憶を使って死んだ彼を生き返らせることもできるというわけだ。しかし現実に生き返らせることは僕の同じ記憶ってやつが許してくれない。
記憶は想像力を限定的にしか働かせないようにできているらしい。
(勝手なやつだ、じゃ俺も勝手に考えてやる)
生まれて死ぬまでを命というのではなく、命というものは、生まれたり成長したり老いたり死んだりする、生まれる前から生き死も又生きる、そういうものなんだよ。そうでなければこんなにも彼の生きている姿を想像できるはずがないじゃないか。(画)


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