2019年4月6日土曜日

山道を歩きながら

毎日の散歩に裏山を登る。木を森を地形を見ながら歩いていると何やら言葉が浮かんでくる。漱石も虞美人草でこれと同じ感覚を書いていたのだ。これはまるで動いている脚が想念を生み出しているように思える。人は考える脚(葦)なのさ。
さてその脚が教えてくれた、絵は受容そのものだよと。そうだ描くことは受容そのものじゃないか。
今までは、表現したくなる何かが自己のうちに浮かんだら技法を選び行為し、その結果の試行錯誤を経て作品ができあがると思っていた。
それは違うんだ、表現したいものもその方法も、細部に至るまで選択権など自分にはないのだ。全てがどこからかやって来る、そして自分はそれをただ受容することしかできないのだ。自分の手の下から現れて来るものを全て受け容れるしかないのだ。描いては消しまた描くという試行錯誤は受容の結果であって途中経過ではない、描くという行為そのままを受け容れねばならない。
そんなことを山道を歩きながら考えた。(画)


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