この季節を恐れていた。やって来るのが怖かった。とにかく時間が過ぎるのが怖かったのだ。寒い冬のまま時間が凍結してくれた方がいいと思っていたから。
でも否応なく気温が上がり暖かい季節がやって来た。春。暖かい風が吹き強い日差しが来る。どうした事か怖いものがやって来たというのに心のどこかにワクワクするようなものを感じる。何かが新しく始まっているのだという気さえする。
今まで感じたことのない春がやって来た。ガハク
この季節を恐れていた。やって来るのが怖かった。とにかく時間が過ぎるのが怖かったのだ。寒い冬のまま時間が凍結してくれた方がいいと思っていたから。
でも否応なく気温が上がり暖かい季節がやって来た。春。暖かい風が吹き強い日差しが来る。どうした事か怖いものがやって来たというのに心のどこかにワクワクするようなものを感じる。何かが新しく始まっているのだという気さえする。
今まで感じたことのない春がやって来た。ガハク
いつも時間に追われた気忙しない毎日が続いている。というのは錯覚で実は多くの時間があるのにその殆どが無為な過ごされ方をしているという思いがあるからそんな気がしているだけなのだろう。
少しずつ現実の状況に合わせて動かざるを得ないという事実に抗っている自分がいる。現実の過酷さと時間という鈍く重い凶器のような圧力。苦い悔恨の持つ鋭い痛苦。そういうもの全てに全体で抗っている。
悲しみこそが永遠の友であり続けるだろう。それだけが今を生き抜く為の武器であるとしか思えない。
Kとガハク
久しぶりにエヴァの木をしげしげと見た。あの時以来いつもちらと視線を向けはしても余り注意せずに通り過ぎた。光が強くなって来たせいもあるのだろう。木がくっきりと浮かび上がる。上へと伸びる力強さとその肌合いも冬を抜けつつあるこの日に復活したかのようだ。この木をエヴァと名づけ左の木をアダムと名づけたのもKとガハクの象徴として感じたからだった。しかしそれをKyokoに伝えたことはない。
悲哀が心の底に鉛でできた錘のように据えられて体全体から蠢くような勢いが出てこない。どうしたらこの苦しい状態から抜け出すことができるか。
悲哀を乗り越えるのではなく解消しようとするのでもなく悲哀を現実のものとして共に生きる。通奏低音のように常に聞こえている空間の中で。それでしか生きていくことはできないのじゃないか。そんな風にしか今は考えられないでいる。
Kとガハク
ようやく昼間にも絵が描けるようになった。
絵の前に立つ事はできるようにはなったが、筆をとっても絵具を画布に載せるという所まで行くのに時間がかかった。今までそんな事は一度もなかったように思う。意味も理由も分からなかった。どうして絵を描かねばならないのかと自問した。この歳でおかしな事だ。
夜なら描けるようになり先日遂に昼間から絵具を練ったり画布に向かって何かをする時間が増えた。しかし『妻の肖像』この主題なら描けるとは思ったが、本当に体の奥から突き上げて来るような衝動を元に描くという所までは行っていない。空虚だ。
元々そんな衝動や情熱が自分にあっただろうか。何を以て絵を描いてこれたのだろうか。そんな疑問が湧く。
画面の上で何かをすればその結果何か問題が発生し解決しようと作業が続く。疲れたらおしまい。今はそうやって時間を使う事。描くという事をするしかないらしい。そうやって描いているうちに絵の方が教えてくれるに違いない。(ガハク)
なんと今年最初の絵具練りだ。もう二月ではないか。通常なら三日に一度くらいは色を練ってもおかしくないが去年の暮れに起きた衝撃で絵を描く気力が湧かなくなってしまっていた。少しずつ描いてはいても去年までのストックで十分だった。その絵具もとうとう無くなり今日は二つの色を練ることにした。特に気力が出て来たわけでもないが以前の制作のペースが戻って来るならそれに越したことはない。
練りながら考えていた。2年前の今日、重症肺炎で90パーセントの死亡率を宣告された時、明け方の光が差し込む待合室の窓から空を見上げていたKyokoの心境はどうだったのだろう?当時のブログを見ると「その時静かに覚悟が広がって行った」と書いてある。
その後の僕は奇跡の様に回復できたので当時の彼女の「覚悟」がどういうものだったのかよく確かめずに来てしまった。立場が逆になり今は病室で眠っている彼女の状況を考えた時その「覚悟」がどいうものか知りたい。相手の死の予感を前にしての「覚悟」。(ガハク)
毎日森に行く。嘗ては趣味のようなものだった。春夏秋冬、季節の移り変わりを見るのが面白かった。やがてそれが絵に行き詰まっていた頃に新しい主題として救いのように降りて来た。風景自体を主題とするのではなくとも周りの自然は、たとえば人物表現の上でも通奏低音のように響いているのを感じた。
あの日を境に趣味のようなものだった事が今や義務のようになった。取り憑かれてしまったのかもしれない。1日に1度では足りず2度登るようになり、今日は遂に早朝と昼と午後の3度森を往復した。できる事なら戻りたくない。少しも疲れないし、このまま歩き続けてどこまでも行けるならどんなにいいだろうと度々思う。
しかし戻らなければいけない。Kyokoがいるのだ。その身体は今は少し離れた所ではあるけれど確かにそこにいて生きて呼吸しているのだ。そういう彼女を見守る義務がある。それは僕の喜びなのだ。彼女が真剣に心を込めて作り上げた作品と共に彼女自身も僕も一緒にいなければならない。
森に埋没するのを求めるのではなく今は「何か」をそこに見出したい。「何か」を教えて欲しい。できれば新しい自分を発見したい。そしてそれはきっと今よりずっと良い「私」であるはずだ。(ガハク)
絵が描けない。筆を持って画布に向かっても画面に届く頃には力が入らない。どうして俺は絵を描くのか?数週間経ってこれなら描けるかもしれないというものを見つけた。妻の肖像だ。
肖像というのを意識して描きたくなかった。現象に引きづられるのが嫌だからだ。一つの個性とかありようというものを念頭に置いて描こうとすると、その形の特徴とか個性的な印象とかいうものに激しく囚われてしまい、自発的に自由にキャンバスに向かえなくなるのを恐れるからだ。
しかし恐れていたら描けなくなるだろう。これ以外に描けるものがないならそれを描かねば。例えばゴッホが麦畑でたった一人グリーフに捕まって死んだように、描かねば死ぬかもしれない。
しかし妻が今生きている以上僕が死ぬ訳にはいかない。互いに相手を守るという約束を今こそ果たさねばならない。ここに描く主題を見つけた。これなら何とかなるかも。
「妻の肖像」を描く。(ガハク)